小野朋宏くん死亡事件 (事例 S020507

陳述書(2)


 以下は、2005年3月11日(金)、朋宏くんの母親・文恵さんが提出した陳述書の内容です。
ご本人の了解を得て掲載させていただいています。
2003年12月9日付の民事裁判に先立っての陳述書は別にあります。


平成15年(ワ)第3798号 損害賠償請求控訴事件

意見陳述書 

平成17年 3月 8日
小野 茂明
小野 文恵
【倒れるまでの状況】

 私どもの次男朋宏は、平成14年4月に神奈川県立小田原城北工業高校に入学しました。
ゴールデンウイークが終わった5月7日に体育の授業で持久走の練習がありましたが、当日、見学をする生徒がジャージを忘れたという事で、普段から生徒に対して暴言を浴びせ、威圧感を与えていた体育教師は、「ムカツクから3000メートル走れ!」と言い、予定を変更して3000メートルを走る事を生徒達に命じました。(後から教師に聞いた所、当初は1500メートルの予定だったとの事です。)

【倒れた時の状態と教師の暴言】

 そして、朋宏は、何周か走った所でフラフラと膝をつく様に前に倒れ、起きあがろうとして後ろに倒れました。でも体育教師は、見ていた生徒の話によると、生徒に様子を見に行かせ、自分は動こうとせずに、「あいつはいつまで寝ているんだ!起こして走らせろ!」と暴言を吐き、しばらくしてから朋宏の所に近づいて行ったそうです。

【見ていた生徒の証言と体育教師の証言】

 その時の朋宏の状態は、体育教師と見ていた生徒とでは大きく食い違っています。
生徒達は、「辛そうだった!」「顔色が青く、震えていた!」「ヤバそうだった!」と言い、体育教師は「話はできていたし、顔色も悪くなかった!」と言っています。

【体育教師がグラウンドで行った処置】

 でも体育教師は、最初、脳貧血ではないかと考えたという事なので、顔色は確かに悪かったのだと思います。そして、教師は、グラウンドらある小屋の前に朋宏を運び、今度は過呼吸の処置と称して、ペーパーバック法を行いました。
 しばらくしてから、保健室に担架で運ばれました。しかも、運んだのは生徒達で、体育教師は一足先に保健室に向かったそうです。

【保健室での処置】

 保健室には、養護教諭が当時2人いて、1人は正看護士の資格を持っていました。
保健室では、身体についた泥を拭いたり、身体をさすったり、声掛けをしたりしていますが、バイタルチェックは、1度脈拍を測っただけです。それも、走り終わって20分位経っているにもかかわらず、140以上もありました。

【養護教諭の証言のおかしい箇所】

 裁判で養護教諭は、「脈拍は、何度も測りました。」と証言し、具体的な数字も述べましたが、本当に何度も計ったなら、父母会で父兄に「どうしてもって何度も脈を計らなかったんだ!」と責められた時、その数字をなぜ堂々と言わなかったのでしょうか。本当に何度も計ったなら、なぜ、日誌に書かなかったのでしょうか。
 そして140という信じられない数字も、「スポーツをしていない子は上がりやすい」「太った子は戻りが遅い」などと言い訳していましたが、ドクターに聞いた所、そんな事はないそうです。

 その事ひとつとっても異常な状態なのに、話ができていた、震えはなかった、お弁当を食べたがった、回復していた、との理由から、救急車を呼んでもらえず、倒れてからずっと保健室に寝かされ、約3時間後の午後1時半にタクシーで自宅に送り帰されて来ました。

【自宅に帰って来た時の酷い様子】

 自宅では私が出迎えましたが、その時の朋宏はとてもひどい状態でした。
顔色は真っ白で、フラフラしていて、担任は必死で肩を抱えており、一人でなどとても歩ける状態ではありませんでした。
 それでも、心配をかけまいとしていたのか、朋宏は一生懸命歩こうとしていました。
 ここまで酷い状態だとは知らなかった私は、びっくりしてしまい、家の中にいた長男を大声で呼び、抱えて家に連れて入ってもらいました。
(長男によると、玄関でも倒れそうになり、長男が必死で支えたそうです。)

 私は担任にお礼を言い、担任は乗ってきたタクシーで帰ったようでした。とにかく、早く朋宏の様子を見たいのと、病院に連れて行かなくてはとばかり考えておりました。

【再び倒れたトイレの中での状況】

 急いで家に入ると、大きな呻き声が家中に響いていました。見ると、朋宏がトイレの中で倒れてしまったらしく、トイレから泣き声の混じったような大きな苦しそうな声が聞こえています。ドアを押しましたが、背中でドアを押さえる状態で倒れてしまったらしく、ドアはビクともしません。私は、朋宏の名前を大きな声で呼びながら力を込めてドアを押し続けました。そして、やっとの事でドアを7〜8センチ開けました。そして、その隙間から朋宏の左手が見えたので、私は自分の手を差し込み、朋宏の手を握りながら大声で名前を呼びました。でも、私の言っている事が全然理解できていない様でした。

 これは救急車を呼ぶしかないと思い、119番しました。
 救急隊の手でドアは開けられましたが、すでに脈拍は弱く、心音もほとんど聞こえないような状態だったそうです。そして、午後2時43分に亡くなりました。

【亡くなってからの学校と県教委のひどい対応】

 朋宏の死後、葬儀も終わった頃、私たち遺族の耳に色々な噂が聞こえて来る様になりました。そして、そのひとつひとつが信じられないものでした。
 何回か出席したクラス懇談会(開催は父兄が教えてくれました。学校からは何の連絡もありませんでした。)で、倒れた時のグラウンドでの状況、保健室での状況等、教頭からの説明を受けましたが。生徒の証言は何ひとつなく、すべて体育教師と養護教諭の証言のみ採用されていました。

 その後、何度か父母会に出席し、学校側に謝罪を求めて参りましたが、「今考えると、ああすれば良かった、こうすれば良かったという事はあるが、その時その時は適切な処置をした。」という校長の言葉と「そういう病気にかかっていたのだから、学校側に落ち度はない。」という県教委のS課長の言葉に、提訴を決意いたしました。

 提訴から1年3カ月が経ち、去年10月には体育教師と養護教諭の証人尋問があり、この2人は相変わらず、同じ言い訳を繰り返しておりましたが、12月24日の担任の証言にはあきれてしまいました。
 最初の頃は、ただひとり涙ぐんでみせたり、主人と2人きりで話がしたいと電話をよこしたり、正義の味方ぶっておりましたが、裁判所では、突然態度が豹変しました。おそらく、県教委からでも何か言われたのでしょう。
 帰宅した時の朋宏の様子をあまりにも軽く話したのにはあきれて、「何で嘘をつくのですか!あなたは宣誓したのでしょう?朋宏に対して恥ずかしくないですか?」と言ってやりたかったです。あの時のひどい状態は、私が実際にこの目で見た事なのですから。
 
 その怒りを持ったまま私の証言をするはずでしたが、残念な事に引き続き行う予定だった母親の証言は、時間がなくなったという事で、3月11日になってしまいました。

【今、朋宏の母親として思う事】

 今思う事は、教師たちは、「生徒の死」という事に対して「痛み」を何も感じていないのではないかという事です。これは大変な事です。これから先、何人の生徒が命を落とすか分かりません。
 学校で、大切な子供を亡くした親御さんはみなさんそうだと思いますが、誰も好き好んで裁判などしたくありません。どうしようもなくて、他に方法がなくて、しかたなく提訴に踏み切るのではないでしょうか。うちの場合も、何度も何度も謝罪する機会を与え続けました。1年近く謝罪を求めました。でも、学校側は、絶対に認めませんでした。
 私は、当日には、悔いのないように証言をしたいと思っております。
 亡くなった子供は、もう何も言う事はできなのだから、朋宏が私のそばで聞いていてくれる事を信じて精一杯がんばります。
      
                                                           以 上


裁判の経過についてはわたしの雑記帳に書いています。検索は検索・索引 「小野朋宏くん」の名前で。 S.TAKEDA

              



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