わたしの雑記帳

2014/5/14 地方教育行政法「改正」への反対声明  教育が政治に支配される危機!

2014年5月13日、文科省記者クラブで会見

東(関東)の児玉勇二弁護士と西(関西)の渡部吉泰弁護士が、取りまとめ役になって、『首長や国の権限を強め、教育への政治的支配を強化する地方教育行政法「改正」への反対声明』をつくり、賛同者を募っている。
(声明文はこちら ⇒ 『首長や国の権限を強め、教育への政治的支配を強化する地方教育行政法「改正」への反対声明』
近々強行採決されるのではないかという懸念もあり、昨日(5/13)、文部科学省の記者クラブで記者会見を行った。

急に決まったことや昼間という事情もあり、当日、参加したのは、児玉勇二弁護士、津田玄児弁護士、杉浦ひとみ弁護士、澤藤統一郎弁護士と、GHPの小森美登里さんと武田の6人。
そして、会見場に現れた記者はたったの4人。途中1人が携帯電話とともに去っていったので、実質3人、最終的には2人?開け放たれた扉の向こうに何人かの記者が談笑していたりしていた。
事前に、幹事社から「記者会見を開いても関心はないと思う」と言われたと聞いていたが、文科省の記者クラブだというのに、ここまでとは思わなかった。

メディアには頭脳優秀な人がいっぱいいるので、今回の安倍内閣が何をもくろんでいるのか、当然、私などよりずっと承知していると思っていた。しかし、与えらた情報を疑問を持たずに受け入れてしまうのは、それこそ長年の与党政治による教育介入の成果なのか、この関心のなさに、かえって危機感が高まった。


●地方教育行政法「改正」の内容

今、国会に上程されている地方教育行政法改正案の主要な内容は、
@教育長と教育委員長を統合して、新教育長とする。
A新教育長は、首長が議会の同意を得て任命・罷免するものとし、任期を3年とする。
B新たに首長が主催する総合教育会議の設置を義務付け。大綱的な方針を決定する。


この法案の教育委員会「改革」論は、大津のいじめ自殺事件での教育委員会の隠ぺいを大きな論拠としているという。大津事件でなくとも、学校事故事件が大きく報道されたとき、必ずのようにやり玉にあがるのが、教育委員会。
ただし、教育委員会制度は複雑。いちばんの問題はその名称にあるのではないかと思う。
教育委員会には、広義の意味の教育委員会と、狭義の意味での教育委員会というのがある。
(文科省の「教育委員会」の説明は http://www.mext.go.jp/a_menu/chihou/05071301.htm 参照)

私自身、じつは、「教育長」というのは、「教育委員長」の略だと思っていた(教育委員会のことを教委と言うように)。今だ、このサイトのあちこちに直していない箇所がある。
制度的な難しいことはとても苦手だが、私は現在、以下のように理解している。

A.教育委員というのは年に数回集まってその地域の教育について意見を言ったりする非常勤の人たち(ここでは合議制と表現)。トップは教育委員長。 

B.常勤職員で構成されて、日常的に学校に関わる事務を行っているのが、事務方の教育委員会(ここでは事務方と表現)があり、トップは教育長。

C.広義の意味での「教育委員会」という時には、@とAを併せたものを言う。



隠ぺいの中心になっているのは、Bの教育委員会事務方

一般に、私たちが「教育委員会」と言うのは、狭義の意味であり、Bの教育長をトップとする事務方のこと。
大津ほかで、いつも問題になるのは、B事務方の教育委員会と、そのトップである教育長。
学校事件事故と教育委員会の対応・発言一覧 参照
ここに出てくるのは、一部を除いて、Bの教育委員会であり、教育長。

公立の学校で事件事故があると、学校管理職は真っ先に教育委員会に連絡する。すると、教育委員会事務方の人間が飛んできて、マスコミ対策と訴訟対策を学校管理職に事細かく指示する。
(このあたりのなぜ隠ぺいするのかなどは、GHPシンポ資料を参照
http://www.jca.apc.org/praca/takeda/pdf/nazeinpeisurunoka.pdf)

2010年、ジェントルハートプロジェクトは、51人の学校事故事件の被害者や保護者に、『当事者や親の知る権利についてのアンケート調査』を実施した。http://npo-ghp.or.jp/wp-content/uploads/2014/03/victim_20140305.pdf
(p29)「Q17-2. 事実を知るうえで、最も障害になったのは何ですか?」の質問に対し、
1位は学校管理職の拒否や抵抗。
2位は教育委員会の拒否や抵抗。

3位は関係する児童生徒の保護者の拒否や抵抗。
しかし、上記のとおり、学校管理職はB教育委員会事務方の指示で動いている。つまり、隠ぺいの中心はB教育委員会事務方にこそある。

では、教育委員会事務方のトップである教育長を首長が指名するようになれば、隠ぺいはなくなるか?
どのみち、公立学校が民事裁判で訴えられれば、被告になるのは学校設置者である自治体になる。現実に被告席に座り、被告代理人と協議しながら動くのは教育委員会事務方の職員だとしても、裁判で負ければ支払われるのは、税金だ。
学校裁判で、裁判長から和解勧告が出たとき、一定以上の金額の場合、「議会の承認が必要」として、被告側の代理人が持ち帰ることが多い。議会すなわち首長をトップとする議員たちだ。
そこで難色を示され、和解が決裂することは少なくない。大きな額が税金から支出されるとき、責任をとらされないまでも、少なくとも首長の評判は落ちる。まして、これから首長と教育長の連携が強化されれば、教育長への批判は首長への批判や任命責任を問われることになる。
隠ぺい体質は解除されるどころか、ますます強固になるだろう。

自殺後の第三者委員会設置にしても、首長の管轄下では、教育委員会直轄よりは直接的な影響力が少ないだけで、同じ自治体の系列としては、自治体の長の直轄で設置されても、できれば学校側の問題に結びつけたくないのは同じこと。パイプが太くなればなるほど、一枚岩となって、隠ぺいに走る可能性は出てくる。


解体されようとしているのは、Aの合議制教育委員の制度

問題は、このBの事務方教育委員会の問題が、Aの合議制教育委員の問題もしくは、Cの広義の意味の教育委員会の問題にすり替えられていることだ。
今、政権与党によって手を付けられ、無力化させられようとしているのはAの合議制。強化されようとしているのはBの事務方のトップである教育長の権限と、首長との連携。

「教育委員会」という名前と制度の難しさと混乱を利用して、政府が以前から狙っていた教育への介入をここで一歩大きく推し進めようとしている。
学校事故事件で亡くなった子どもたちの死が、子どもを大切に思わない政治家たちの手でいいように利用されようとしている。
かつて日の丸・君が代をめぐって、国と教職員組合との板挟みになって自殺した校長の死をきっかけに、教職員との合意を目指すのではなく、強制的に日の丸・君が代を法制化した時のやり方にそっくりだ。

政治家は戦後ずっと、教育委員会解体を願ってきた。
理屈の一つとして、憲法と同じく、「占領軍であるアメリカに押し付けられたものだから」と言っている。
しかし本音は、政治からの独立をうたい、政治家の思い通りに動かないからにほかならない(と私は思っている)。

象徴的なのは、中野区教育委員会。かつて中野区は全国で唯一、区民の投票をもとに教育委員の選任を行う準公選制をとっていた。
その中野区で起きたのが、1986(昭和61年)年2月1日に中野区立富士見中学校の鹿川裕史くんが、「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」と遺書を残して自殺した事件(860201)。いじめの一環として行われた葬式ごっこの色紙に、何名かの教職員がコメントを書いていたことでも、大きな話題となった。

この時、教育委員たちは、すぐに公開審議会を開催し、教育委員自ら富士見中の関係者から事情聴取した。
結果、中野区は公式には「いじめが鹿川くんをめぐって存在し、遺言の文面から自殺原因にはいじめがあったものと受け止めている」と認定し、校長や教師を処分した。いじめ自殺にからんで教師が処分されたのは全国初だったという。
この教育委員たちというのは、A合議制の教育委員たちであり、いわばいじめ自殺事件について機能していたと言えると思う。
ただし、結局、行政からは非難の対象となり、その後は事務方の委員会が主導して、行政としての正式謝罪や補償をせず、民事裁判になった。
訴訟は教育委員会の事務方主導で進められ、裁判に入ると、中野区も東京都と協力していじめはなかったとして争った。

一審は被告側の言い分を多く認め、実質敗訴の内容だった。
「これらはむしろ悪ふざけ、いたずら、偶発的なけんか、あるいは仲間内での暗黙の了解事項違反に対する筋をとおすための行動又はそれに近いものであったとみる方がより適切」。いじめグループについても「むしろ気のあった遊び仲間という方がより実態に近い」「、“葬式ごっこ”も「鹿川くんがいじめとして受け止めていたとはいえず、むしろひとつのエピソードとみるべき」「ひょうきん者で前記のような性格特性の持ち主であった鹿川くんとしては、このような悪ふざけの対象としてクラスの注目を浴びることに面映ゆさを感じたであろうことさえ窺われる」「遺書については、自己顕示欲や自己愛的傾向のあらわれ」」「『子供のけんかに口を出す』べきではない」
多くの批判を浴びた裁判所の認定だが、元はといえば、被告東京都や中野区の代理人弁護士が主張した内容だ。

両親は控訴し、高裁では自殺の予見性が認められず、自殺損害の賠償は認められかったものの長期にわたるいじめに対する慰謝料算定で、都、中野区、同級生2人の被告4者に1150万円の支払いを命じた。
この高裁判決が出たのは、1994(平成6)年5月20日。

実は中野区の教育委員準公選制には、文科省は懸念を表明する通知を、鹿川君事件(昭和61年)より前から出していた。昭和59(1984)年3月5日付けで、文部省は、初等中等教育局長の名前で、東京都に対し、「中野区教育委員会の委員の選任に関する事務の改善について」という通知を出している。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19840305001/t19840305001.html

実際にこの制度が廃止になったのは、高裁判決(1994年)の翌年。1995年。
(ウィキペディア 「中野区教育委員候補者選定に関する区民投票条例」http://bit.ly/1sLGPr1 参照)
前年1994年11月27日には、愛知県西尾市の大河内清輝君の自殺(941127)をはじめ、前後に多くのいじめが疑われる自殺事件があった。
中野区のA合議制教育委員のような形で、外部から入って調査したり、いじめを最初に認めてしまうと、いじめ等で裁判になったときに、学校設置者である自治体が負けて、多額の損害賠償を支払わされるのではという思いが働いたのでは?と勘ぐりたくなってしまう。
少なくとも、学校の隠ぺいに加担せず、機能していたA教育委員会には、政治的圧力があった。一方で、各地で当たり前のように毎回問題になっていたB教育委員会に対しては、今まで政治的なメスは一切入ってこなかったということは言えるのではないかと思う。

似たような事例が、1997年1月7日に、「あの4人にいじめられていた」「ぼうりょくではないけど ぼうりょくよりも ひさんだった」と残して自殺した長野県須坂市常磐中学校前島優作くん(中1・13)の事例(970107)にも見られる。
教育委員長(Aの合議制トップ)は、須坂市で「いじめ」による自殺事件が半年で2件になることの責任をとって、辞表提出。
検討委員会の報告を受けて、須坂市教育長(Bの事務方のトップ)は「前島くんの死はいじめが原因の死と断定すべきではない」といい、教育委員会、学校長から一切の謝罪なし。
新任の教育委員長(Aの合議制トップ)は一件落着ということで、両親と「共に考える会」からの懇談の要請(4月着任から10月までに7回)を拒否し続けた。

つまり、合議制の教育委員会は、事務方の教育委員会に比べれば、自分たちの立場や待遇に影響することが少ない分、公平中立性があるが、弱体化しているために機能していない。
教育委員はやめることはあっても、元々非常勤であり、大抵は別に本業をもっており、経済的にも教育長に比べて影響が少ないと思われる。(教育委員の月額報酬は地域差が大きい。事務方トップの教育長の月額報酬の平均は75万9千円 http://www.mext.go.jp/a_menu/chihou/05071301.htm)

学校の隠ぺい問題を理由にするのであれば、政治的な影響力の少ない合議制の教育委員会制度こそ強化し、教育長をはじめとする事務方教育委員会の暴走を戒めるべきだが、改正では真逆になっている。



今、進められようとしている教育への政治介入強化されるのはBのトップ教育長権限

安倍内閣は、アベノミクスと呼ばれるように、経済の振興策への期待感から支持されてきた。
けっして、教育問題に精通して、この人にぜひ教育を託したいと思って選ばれたわけではない。
しかし、教育問題に強い関心を持ち、しかもその指示率を背景に、第1次安倍内閣で、教育三法(教員免許法・学校教育法・地方教育行政法)の改革に手をつけた。

2006年の教育基本法改正(新旧比較表 http://bit.ly/1qBlx1K )では、ところどころ耳障りのよい言葉をちりばめながら、「公共の精神を尊び」「伝統を継承し」「道徳心を培う」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」「我が国と郷土を愛する態度を養う」「社会において自立的に生きる基礎を培い」「国及び地方公共団体は、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う」「大学は、社会の発展に寄与する」「政府は、教育の振興に関する施策についての基本的な計画を定める」
などと、
子どもたちが国に奉仕したり、政治が教育に介入しやすい素地をつくっている。

とくに、旧10条「(教育行政)
教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」という一文は、新16条で、「教育は、不当な支配に服することなく、」という部分は残されたものの、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」と、教育の独立性を「役割分担」「相互の協力」という耳障りの良い言葉で、薄めている。

そして、今回の第2弾の地方教育行政法の改革。
、阿部内閣が行おうとしている憲法改正の下地とも言えるのではないかと思う。
今回、各地の教育行政のトップである教育委員会の教育長を完全に掌握することができれば、戦時中と同じ体制に戻せる。
知恵のついた大人たちを洗脳するより、真っさらな状態の子どもたちを政治家たちが思うように洗脳できれば、自分たちにとって好都合だろう。戦争下で、日本はそれを十分な経験している。思想教育さえしっかりすれば、金を払わなくても、高待遇を約束しなくても、一般国民はみな自分の財産も、労力も、命さえ差し出してくれる。
元手がいらない。だからこそ、道徳教育であり、日の丸君が代なのだと思う。教師と子どもから考えることを奪い、盲目的に国の言うことに従う国民の育成は、政治家たちと、それとつるむ大企業にこそ大きな利益をもたらす。

ある政治家は私たちに、「子どものことをやっても票にも、金にもならない」と堂々と言ってのけた。これからは違う。企業の望む人材工場として学校教育をいじり(今までもそうだったが、時間がかかった)、それを政治家がコントロールできるようになれば、社員教育に金をかけたくない企業の票も、政治献金も入る。

戦争をすれば国民は犠牲になるが、兵器をつくる大企業は儲かる。儲けるために戦争をしたい人たちがおり、金をもっている。その金が政治家を容易に動かせることは、歴代の総理を含めた黒い資金についての報道を見れば明らかだ。

ある日突然、議員たちが学校にやってきて、教育の在り方を批判し、教材を奪って行った七尾養護学校事件(http://www.jca.apc.org/praca/takeda/kyouikujiken/k030702.htm)

教育長をトップとしたB事務方の教育委員会の権限を強化したら、ますますこのような政治介入が平然と行われるようになる。子どもの育ちより、大人の都合が優先され、それが法的に守られてしまう。
あなたの自治体の首長の年齢はいくつですか? 今の子どもたちを理解していますか? 幼い子どもたちの未来について真剣に考えられる人ですか? 経済より子どもの幸福感を優先できる人ですか? 次の首長もまた同じ意識で子ども中心の教育を考えられる人ですか?
もし、自信をもって「そうだ」と答えられないのなら、この人たちに教育を委ねないでほしい。子どもの未来、この国の行く末を丸投げしないでほしい。

安倍内閣は、教育委員会事務局のトップである教育長の権限と首長とのつながりを強化しようとしている。
学校事件事故と教育委員会の対応・発言一覧 これらの教育長の暴言、教委の隠ぺいや事なかれ主義が改善されるのではなく、より強化されようとしている

※教育行政については全くの素人です。間違っている部分があるかもしれません。



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