子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
970107 いじめ自殺 2000.9.10. 2000.12.4. 2001.2.11 2002.9.22 2005.4.2 2005.7.更新
1997/1/7 明日から新学期が始まるという日の夜、長野県須坂市立常磐中学校の前島優作くん(中1・13)が、自宅の軒下で縄跳び用の縄で首を吊って自殺。ズボンのポケットにメモ用紙に書かれた遺書と、ゲーム機を買うつもりで貯めていた小遣いの4万円が入っていた。
経 緯 1996/12 2学期終業式の帰り友人と歩きながら、優作くんは「もし自殺するとしたら、どういう方法があると思う?」と聞いた。新手のジョークだと思った友人は、「よくわからないけど、あんまり細いと首に食い込んで痛いんじゃないか?」などと答えていた。

自殺直前の冬休み中は、仕事で多忙な父親に代わって、大掃除や親戚を招いての新年会の接待に励んでいた。

1/7
 自殺当日の朝、優作くんは父親と一緒に自宅前の雪かきをした。
昼間、新学期に必要な買い物に母親と駅前に行き、新しい上履きを買うことを母親が勧めたたが、「まだ履けるからいい」と断った。優作くんが前々から新しいゲーム機を買うために小遣いを貯めていたことを知っていた母親が買ってやろうとしたが、「もう、いらないんだ」「卒業だよ」と答えた。結局、今持っているゲーム機用の1980円の中古ソフトを購入。帰宅後しばらく、買ってきたソフトで遊んだ。夕方、塾へ行き、20時30分頃帰宅。


22時15分夕食後、「朝は6時半頃起こして」と言って自室へ。

約30分後、優作くんがいないことに姉が気づき、家族で捜索。ベランダで首を吊っているのを発見。23時病院の集中治療室で死亡確認。
遺書・他 「あの4人にいじめられていた。ぼくは死ぬ ぼうりょくではないけど ぼうりょくよりも ひさんだった かなしかった。ぼくはすべて聞いていた。」と書いたメモがズボンポケットに入っていた。

1996/12/26 国語の課題「今年の自分の10大ニュース」のアンケート用紙に「僕の?大ニュース バスケ部に入部した。」とだけ書き、その下に、「32 53 25 45 52 32 41」というポケベル用数字が書かれていた。ポケベルのコード入力表に従って50音に変換すると「死ぬことにした」となる(当時、国語の教師に意味がわからなかった)。
警察の対応 1/7 医師や看護婦が心臓マッサージを続けるなか、警察官が病院に到着。両親を集中治療室の息子から離し、廊下のソファであぐらをかいていた警察官にいきなり、「生命保険はいくら入っている?」と聞かれる。
「遺書はあったのか?こういう場合は、ズボンのポケットにあることが多いんだが」と言われ、見に行った結果、遺書が見つかる。

1/8 翌朝6時頃、遺体を霊柩車に乗せて自宅に戻ると、4、5人の警察官が家中を捜索して帰るところだった。

遺族が繰り返し警察に抗議した結果、担当課長があぐらをかいていた部下を連れて、「行き過ぎた点があった。申し訳ない」と謝罪。
被害者 優作くんは、体が大きく、スポーツが得意。めったに弱音を吐かない少年だった。
バスケット部に所属し、近くレギュラーになれると見られていた
。中
学校で校友会(生徒会)の代議員に選ばれた。
転校生のOくんがいじめられた時、優作くんだけは仲良くしていた。

死後、優作くんの机のなかから、女の子からの手紙がたくさん出てきた。
被害者の変化と家族の認知 1996/9 中学1年の9月以降、優作くんの口数は極端に減り、笑顔も見せなくなっていた。
しかし、家族や友人が尋ねても「べつになんでもない」と答えていた。
両親は、思春期を迎えているのかもしれないと考えていた。
調 査 「学級新聞係のアンケート」の「来年のクリスマス誰と過ごす」の問いに「1人」、「10年後のクリスマス誰と過ごす」の問いにも「孤独で1人」と答えていた。

1996/9 優作くんが夏休みの人権ポスターで「差別はいかん」と書き、「孤独」と書いた人物像と周囲に4人の笑う人間を書いていた。(このポスターは、1999/3/17 同級生らが卒業する前日になって、「気づかなかった」と言って返却。教育長は「このポスターからいじめに結びつく事実は見つかりませんでした」と文書を送りつけてきた。)

1996/10 頃、教師が撮ったクラス全員の写真を見ると、Vサインやガッツポーズをしている生徒の中で、優作くんは耳を押さえ泣きそうな顔をしていた。


1996/12初め 漢字練習帳の最終ヘージに「感電死」「焼死」「溺死」など、「死」にかかわる熟語が3行にわたって書かれていた。

死後、優作くんの机の中から、「パシリ」など書かれた裏に磁石がついた白い札が複数枚発見される。

遺族は連絡先入りのビラ約6500枚を配、情報を呼びかけた。
自殺前に、優作くんが公園を4人の少年と歩いていたのを目撃したひとがいた。
担任の対応 常磐中学校は信濃教育会の全県的な教育指定校で、学級担任は、その研究主任だった。

優作くんの生活記録(生活ノート)は表紙が汚れ、中央に不自然な穴があいていた。その表紙はセロテープで補修され扉のページがなくなっていた。教師の日記に対するコメントは、走り書きか検印程度だった。

12/21 の日記に「・・・ぼーとしてたら、そのまま一日終わった」と書いてあり、担任からは「表紙の破れ応急措置はした。自分でしっかりやっておこう」と書いてあった。(何故、ノートが大破したのか、理由は聞かれていない)
9/19−23 生活記録に「ふみんしょう、ひるまねむくて、夜眠れない」と書いていた。(やはり、理由は聞かれていない)
他の被害者 優作くんの同級生のBさんも入学して間もなく、やはり暴力ではないが言葉によるいじめで孤立し保健室登校になっていたが、更にいやみを言われ、ついには不登校になっていた。
学校・ほかの対応 1/7 優作くんが亡くなった夜、校長をはじめとする学校関係者が病院に駆けつけ、遺書の存在を確認し、内容を「控えさせてくれ」と言って、書き写した。

1/9 アンケート実施後、特定の生徒から聞き取り調査をしたが、「不確かなことは言わないように」という釘をさした言い方だった。

1/12 学校側が「優作くんのいじめ自殺」のことを保護者に説明するために開いたPTA総会で校長は、「犯人探しはしたくない」「創立50周年を前にして、このようなことがあったのは汚点だ」と発言。

校長、教頭、学級担任以外は1人では両親に会わない。教師らは焼香には来るが、「プライバシーの侵害」や「守秘義務」等の言葉をかざして何も語らない。

「いじめ・不登校を共に考える須高(須坂市・上高井郡)の会(共に考える会)」と両親が、学校側に再調査を要請したが、提案された内容・方法の調査を受け入れことを拒否。理由として、「これまで子どもとの信頼関係の上で調査し、生徒はこれに精一杯こたえてくれた。この上、調査を重ねると信頼関係が崩れる」とした。検討会から唯一の助言で、再調査には応じたが、部分的な受け入れでしかなかった。

1997/3 全クラスの自筆作文集『登竜門』に、優作くんと不登校の子どもの作文だけが掲載されない。学校長に問いただすと「うっかりしていました」と返答。

学校側は遺族に対して、「深刻ないじめはない」と繰り返す。
事故報告書 1997/1/9 学校がに須坂市教育委員会と長野県教育委員会に「学校事故報告書」提出。

遺族が同報告書を要求するが見せてもらえず、情報公開条例による開示手続きで取り寄せる。
報告書には「自宅での自殺による死亡」「調査をしたが、不思議なくらい何も出てこない」と書かれており、「いじめ」のことも、「遺書」のことも書かれていなかった。添付書類欄は「なし」と書かれていた。

4/ 追加報告が出るが、「遺書」ではなく「メモ」と書かれていた(後に遺族の問い合わせに対して、学校側は「あれはメモ帳を破って書いたものだから、メモであって遺書ではない」と回答)。
学校も市教育長も「調査したが何もわからない」と報告。
検討会議 1997/5/8 教育委員会が「市内中学校生徒の自殺にかかわる検討会議」設置。遺族には何の連絡もなく、新聞記事ではじめて知る。

検討会議は遺族に対し、「優作くんの生い立ち」「性格」「精神状態」「家族の動向」「どうして優作くんの心の変化に気がつかなかったのか」 を質問するが、遺族からの要望や意見は聞こうとしない。「これは、個人・家庭原因説を補強する資料づくりだ」と感じる。

検討会に前島家が推薦する委員を加えることや代理人の発言を要望するが拒否。
会議に提出される資料、委員会設置要綱のコピーは、その場では「可」ということだったが、約束は守られず、遺族には渡されなかった。(後日、閲覧は「可」ということになったが、資料についてメモしたり、写真に撮ったり、質問事項についてテープをとることは「不可」とされている)

1997/12/15 父・前島章良さんが須坂市教育委員会に対し、須坂市公文書公開条例に基づき、検討委員会に提出された資料の開示を請求するが、ほとんどが非開示。

1998/1/13 行政不服審査法に基づき異議申し立て。
11/20 須坂市教育委員会、須坂市公文書公開審査会に諮問。
11/25 「公開できる部分」と「非公開とすることができる部分」を示す。

1999/2/2 検討会議、「報告書」を提出。9ヶ月かかって提出された報告書には、「
遺書に書かれていたいじめの事柄は何であったか、このことを明らかにするために調査検討を行った。しかし、どれがそれだとは特定できなかったと結論。「いじめ」の加害者については、ほとんど触れていない。

「共に考える会」の働きかけを受け入れ、「遺書にある『いじめ』が存在したことは否定できない」「周囲から孤立し、思い悩み、無力感にうちひしがれ、希死念虜へという道筋をたどることも予想される」「一部の生徒が学校や教師に不信感を持っていることも見受けられる」「学校は、家庭、地域、関係機関と連携を深めていくことが重要」と述べた。
教育委員会・ほかの対応 教育委員長は、須坂市で「いじめ」による自殺事件が半年で2件になることの責任をとって、辞表提出。

検討委員会の報告を受けて、須坂市教育長は「前島くんの死はいじめが原因の死と断定すべきではない」といい、教育委員会、学校長から一切の謝罪なし。新任の教育委員長は一件落着ということで、両親と「共に考える会」からの懇談の要請(4月着任から10月までに7回)を拒否し続けた。

「共に考える会」が、検討会議の報告書の読み方とその後の真実解明についての取り組みについて要望をまとめ、文書を市教育委員全員と常磐中学校の教師全員に送付したが、この文書はずっと無視され続けている。
アンケート 1回目 1/9 学校が全校生徒にアンケートを実施したことを遺族は新聞報道で知る。
アンケートは記名・記述式で、用紙の回収は生徒。「前島君が悩んだり、困っていたことを知っていたら教えて下さい」という内容で、遺書やいじめについての文言はなかった。

2回目 3/14 アンケートを無記名・用紙は封筒に入れて回収式で取る。学校側は「いじめの事実はわかりません」と発表。

3回目 10/1 アンケートを実施。無記名・記号選択式・「いじめ体験」「その時の気持ち」を記述式。数人から「4人の生徒の動向」や「優作くんがいじめられていたのを見た」証言が出た。
加害者 何人かが「優作くんと両親に謝りたい」と発言。「いじめたかもしれない」と自己反省している生徒が約20人いた。

遺族の調査で「あの4人」の氏名が判明。加害者の両親らもいじめを一切認めず、謝罪なし。
少年たちは、遺族の姿を見ると必ず逃げたり、隠れたりする。
4人グループの中心は小学校から問題児とされていた少年だった。
生徒ほかの対応 優作くんの葬儀には、小学校のときの同級生らが、学校を休んで大勢かけつけてくれた。

遺族が同級生の自宅を何十回も訪ねて、ようやく5人の生徒から話しを聴くことができた。本人が話そうとしても、親が拒否することもあった。
関 連 9月26〜27日に行われた「常磐祭」で、生徒会が「いじめ」調査を発表、「全体的にいじめが多い」と分析。優作くんが所属していた2年3組のデータでは、「いじめた経験」が93パーセントあり、「友達がいじめられていたら」「見て見ぬふりをする」のが一番多いという結果を公表。
誹謗・中傷 PTAから「前島さんは騒ぎを大きくして須坂市や常磐中のイメージを悪くしている」「先生だって一生懸命やっている」「前島さんが引っぱり出そうとしている『あの4人』を先生は守っている」というような意見が出る。PTAの会合で、「2年生は受験体制に入るから、もういいのではないか」という意見が出たときく。

また、遺書にある「あの4人」は「シニン」と読む。父親が冠婚葬祭会社の取締役をしていることにこじつけ、「葬儀の職業の家からは自殺者が必ず出る」などの噂が飛び交う。

情報を得るために、優作くんの実名と自宅連絡先を公表した結果、須坂市への敵対行動と取られ、商売にも影響が出るとして会社にいられなくなり、父親は転職。

「息子の自殺は家庭でのしつけに原因があるのでは」「あの家は父親が遊びほうけている」「子どもの面倒をみなかったから、息子が死んだ」「母親がすごい教育ママだった」などの噂が出る。無言電話や「学校に責任をなすりつけるな」「自分たちの育て方が悪いんじゃないか」という電話やファックスや「保険金目当てだ(実際には優作くには保険はひとつもかけられていなかった)」「お金がほしくて裁判をやっているんだろう」という噂がささやかれた。

遺族は、噂の出所を一つひとつ確かめ、抗議に行くことを繰り返した。その結果、前島家とは全く無関係の人びとが物知り顔に噂を流していたことが判明。「人権侵害だから法的措置をとる」という言葉に平謝りに謝罪する。
その後 1997/2/16 「いじめ・不登校を考える会」発足。

1999/6/6 「故優作くんの14歳の誕生日を偲んでの集い」に小学校からの友人が「優作くんを思う」という作文を読む。

優作くんの小学校からの親友が中心になって、インターネットなどを通じていじめ相談に応じる全国組織「いじめから友だちを守る会」を立ち上げる。「

2000/4/8 「いじめ・校内暴力で子供を亡くした親の会」設立。
証 言 勇気ある人の証言で、優作くんへのいじめが1996年8月頃から始まり9月下旬の常磐祭の頃から深刻さをましていたことが判明。その間、
(1) 行動を共にしている友だちが変わった 
(2) 次第に孤立し、生気を失っていく姿が具体的に証言された
(3) 「いじめ」の内容について、その様子が想像できる回答があった。
情報公開 遺族が市の公文書公開条例に基づいて、「市内中学校生徒の自殺にかかわる検討会議(検討会議)」に提出された資料(=担任の報告や生徒からの聞き取り調査の結果を記した資料)を市教委に請求。
1998/12/ 「個人が識別できる」「生徒との信頼関係を損なう」などとして非開示処分を決定。
裁 判 1 1999/3/2 父親の前島章良(のりよし)さんが長野地裁に、公文書非公開非開示処分取り消しを求めて提訴。

「学校側は親に対する説明義務があり、個人情報であってもプライバシー侵害のおそれのない本人や親に対する開示は認められるべきだ」と主張。
判 決 1 2000/12/21 長野地裁で全面棄却。
佐藤公美裁判長は、市教委側の主張をほぼ全面的に認め、「情報公開の範囲は地方自治体が自主的に決めるもので、非開示とした処分に違法性はない」として原告の訴えを棄却。
また、開示要求のあったすべての資料を「個人が識別される個人情報」と結論づけた。
その上で「市の条例は市民が自己情報を取得する制度ではない。公開にあたってプライバシーの侵害を考慮する規定もない」とした。
裁 判 2 2000/1/6 遺族が、「自殺原因はいじめで、そのサインを学校は察知せず、適切な対策をとる義務を怠った」として学校設置者である須坂市を相手に、慰謝料8600万円を求める損害賠償請求訴訟を起こす。

市側は「自殺の原因になるようないじめは認められない」と主張。
裁判の結果 2005/6/3 長野地裁、辻次郎裁判長のもとで和解。

和解条項は、
・双方が、優作君へのいじめとして「あだ名」「悪口」「陰口」などが存在したと認める
・学校の調査で、優作君の死に結びつく「いじめ」の具体的事実は特定できなかったと認める
・市はいじめ根絶に向け、教育・研修活動に取り組む
・原告側は、賠償などの請求を放棄する
など。
参考資料 まほろばブックレットNo.2「死ぬことにした−須坂市中学生自死事件」、三多摩「学校・職場のいじめホットライン」学習会資料、2000/8/21朝日新聞、「死ねことにした」HP、佐賀新聞記事データベース2000/3/14、季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」の中の「須坂市立中いじめ自殺事件」/馬場直樹/2000年9月エイデル研究所ルポ・沈黙する学校と闘う親たち「いじめ自殺」わが子が死を選んだ理由を知りたい/安宅(あたか)佐知子取材・文/「婦人公論」2001年6月22日号、いじめ問題ハンドブック 分析・資料・年表/高徳 忍/1999.2.10つげ書房新社、「絶望するには早すぎる −いじめの出口を求めて−」/宇都宮直子/2002.6.10筑摩書房2000/12/22朝日新聞、長野県ホームページ前島章良(のりよし)氏講演http://www.pref.nagano.jp/keiei/seisakut/kouen/ko030214.htm)、2005/4/20讀賣新聞



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