子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
941127 いじめ自殺 2000.9.10. 2001.5.25 2001.8.12 2002.4.6 2003.7.1 2003.7.21 2005.5.15更新
1994/11/27 愛知県西尾市立東部中学校の大河内清輝くん(中2・13)が、自宅の裏庭のカキの木にロープをかけて首吊り自殺。
遺書・他 遺書と日記は、引き出しの中の他のノート類の下に目立たない状態で置かれていた。12/1の葬儀の日に初めて発見される。

「いつも
四人(名前が出せなくてスミマせん。)の人にお金をとられていました。そして今日、もっていくお金がどうしてもみつからなかったし、これから生きていても・・・。だから・・・。また、みんなといっしょに幸せに、くらしたいです。しくしく。

 小学校六年生ぐらいからすこしだけいじめられ始めて、中一になったらハードになって、お金をとられるようになった。中二になったら、もっとはげしくなって、休み前にはいつも多いときで六万少ないときでも三万〜四万、このごろでも四万。そして十七日にもまた四万ようきゅうされました。だから・・・。でも、僕がことわっていればこんなことには、ならなかったんだよね。スミマせん。もっと生きたかったけど・・・。家にいるときがいちばんたのしかった。いろんな所に、旅行につれていってもらえたし、何一つ不満はなかった。けど・・・。

 あっ、そうそう!お金をとられた原因は、友達が僕の家に遊びにきたことが原因。いろんなところをいじって、お金の場所をみつけると、とって、遊べなくなったので、とってこいってこうなった。

 オーストラリア旅行。とても楽しかったね。あ、そーいえば、何で奴らのいいなりになったか?それは、川でのできごとがきっかけ。川につれていかれて、何をするかと思ったら、いきなり、顔をドボン。とても苦しいので、手をギュッとひねった。助けをあげたら、また、ドボン。こんなことが四回ぐらいあった。特にひどかったのが矢作川。深い所は水深五〜六メートルぐらいありそう。図一みたいになっている。ここでAにつれていかれて、
おぼれさせられて矢印の方向へ泳いで逃げたら、足をつかまれてまた、ドボン。しかも足がつかないから、とても恐怖をかんじた。それ以来、残念でしたが、いいなりになりました。あとちょっとひどいこととしては、授業中、てをあげるなとか テストきかん中もあそんだ とかそこらへんです。

 
家族のみんなへ
 十四年間、本当にありがとうございました。僕は、旅立ちます。でも、いつか必ずあえる日がきます。その時には、また、楽しくくらしましょう。お金の件は、本当にすみませんでした。働いて必ずかえそうと思いましたが、その夢もここで終わってしまいました。そして、僕からお金をとっていた人たちを責めないで下さい。僕が素直に差し出してしまったからいけないのです。しかも、お母さんのお金の二万円を僕は、使ってしまいました(でも、一万円は、××さんからもらったお年玉で、バックの底に入れておきました)

 まだ、やりたいことがたくさんあったけど、・・・。本当にすみません。いつも、心配をかけさせ、ワガママだし、育てるのにも苦労がかかったと思います。おばあちゃん、長生きして下さい。お父さん、オーストラリア旅行をありがとう。お母さん、おいしいご飯をありがとう。お兄ちゃん、昔から迷惑をかけてスミマせん。○○(弟)、ワガママばかりいっちゃダメだよ。また、あえるといいですね。最後に、お父さんの財布がなくなったといっていたけど、二回目は、本当に知りません。

 see you again
 いつもいつも使いばしりにもされていた。
それに、
自分にははずかしくてできないことをやらされたときもあった。そして、強せい的に、髪をそめられたことも。でも、お父さんは僕が自分でやったと思っていたので、ちょっとつらかった、そして二十日もまたお金をようきゅうされて、つらかった。
 あと、もっとつらかったのは僕が部屋にいるときに彼らがお母さんのネックレスなどを盗んでいることを知ったときは、とてもショックでした。あと、お金をとっていることも・・・。

 自殺理由は今日も、四万とられたからです。そして、お金がなくて、「とってこれませんでした」っていっても、いじめられて、もう一回とってこいっていわれるだけだからです。そして、もっていかなかったら、ある一人にけられました。そして、そいつに「明日、『十二万円』もってこい」なんていわれました。そんな大金はらえるわけ、ありません。それに、おばあちゃんからもらった、千円も、トコヤ代も、全て、かれらにとられたのです。そして、トコヤは自分でやりました。とてもつらかったでした。(23日)

 また今日も、一万円とられました(24日)

 そして今日は、二万円もとられ、明日も四万円ようきゅうされました(25日)
あと、いつも、朝はやくでるのも、いつも
お茶をもっていくのも、彼らのため、本当に何もかもがいやでした。

 なぜ、もっと早く死ななかったかというと、家族の人が優しく接してくれたからです。学校のことなど、すぐ、忘れることができました。けれど、このごろになって、どんどんいじめがハードになり、しかも、お金がぜんぜんないのに、たくさんだせといわれます。もうたまりません。最後も、御迷惑をかけて、すみません。忠告どおり、死なせてもらいます。でも、自分のせいにされて、自分が使ったのでもないのに、たたかれたり、けられたり
って、つらいですね。

 
僕は、もう、この世からいません。お金もへる心配もありません。一人分食費がへりました。お母さんは、朝、ゆっくりねれるようになります。○○(弟)も勉強にしゅうちゅうできます。いつもじゃまばかりしてすみませんでした。しんでおわびいたします。

 
あ、まだ、いいたいことがありました。どれだけ使い走りにさせられたかわかりますか。なんと、自転車で、しかも風の強い日に、上羽角から、エルエルまで、一時間でいってこいっていわれたときもありました。あの日はたしかじゅくがあったと思いました。あと、ちょくちょく夜でていったり、帰りがいつもより、おそいとき、そういう日はある二人のために、じゅくについていっているのです。そして、今では「パシリ一号」とか呼ばれています。あと、遠くへ遊びにいくとかいって、と中で僕が返ってきたってケースありませんでしたか、それはお金をもっととってこいっていわれたからです。あと、僕は、他にいじめられている人よりも不幸だと思います。それは、なぜかというと、まず、人数が四人でした。

 
だから、一万円も四万円になってしまうのです。しかも、その中の三人は、すぐ、なぐったりしてきます。あと、とられるお金のたんいが一ケタ多いと思います。これが僕にとって、とてもつらいものでした。これがなければ、いつまでも幸せで生きていけたのにと思います。テレビで自殺した人のやつを見ると、なんで、あんなちょっとしかとられていないんだろうっていつも思います。最後に、おばあちゃん、本当にもうしわけありませんでした。」

エアメール用の封筒の表紙に「遺書」「America用の手紙だけど・・・」「ぜひ、旅日記もよんで下さい」とあり、
 「お金をとられはじめたのは、一年生の二学期ぐらいから。
お母さんは、昔、教会につれていくっていってたこともあったよね。あのときは、とてもいきたかった。(つけたし)日曜日も、また、二万円と一万円をようきゅうされました。そういえば、なぜ、ぼくが今度お金をとったら「しせつにいく」といったか。それは、そっちの方が幸せだと思ったから。彼らから、遊ぼっていうんだ。そして、いかないと・・・
 次の日にたくさんのお金をとられちゃうんだ。だからテスト週間でもあそばないといけなかったんだ。一年生のころは、彼らも、先輩につかまっていたから、べんきょうもできた。」
と書かれていた。

遺書のほかに、自室の引き出しから、B5判ノート13枚にわたって、鉛筆で書かれた「少年時代の思い出−旅日記」が見つかった。楽しかった家族との思い出が綴られていた。

旅日記の最後には、いちばんお金をとった人ベスト4、いちばんいじめたなどとして、遺書にも書けなかったいじめグループの実名が書いてあった。

また、
母親あてに約110万円の「借用書」が残されていた。

「思い出アルバム」の中に、ノートや1年生のときの問題集を使って折った8羽の折り鶴がはさんであった。羽にはそれぞれ、「神様」「ほとけさま」「おとうさん」「おかあさん」「僕」などと、家族6人の呼び名を鉛筆で書いていた。

清輝くんは自殺する10日前から遺書を書き始めていた。
親の認知と経緯 1年生の2学期頃、清輝くんは学校でカバンを隠されたりした。

清輝くんは、一年生のときの成績が学年180人中10番台だったが、2年生になってからは20番台、30番台へと下がっていた。

以前、清輝くんは顔にあざをつくったり、自転車の一部を壊されたりした。昨年の夏からタイヤやサドルのシートを刃物で切られたり、付けたばかりの前かごの針金を切られたりしていた。タイヤのチューブを切られ、遠方から引いてきたこともあった。その際、清輝くんは、「田んぼで転んだ」「自分でぶつかった」と答えていた。

7月 清輝くんは夜、ふらりと家を出るようになった。金の勘定が合わないことがたびたびあり、父親が清輝くんを問いつめたが、「知らない」と泣き続けるだけだった。一度だけ「自分で使った」と認めた。

8/16-17 家族や親戚と京都・奈良へ旅行に行くが、グループのために財布や木刀をおみやげに買っていた。

9月下旬 刈谷署からの連絡で、自転車盗難事件に清輝くんがかかわっていたことが判明。
10/4 父親が清輝くんから「友人から盗めと言われたから」という話を聞いて学校に出向き、「学校で何かあったのでは」と生活指導担当教師に相談。しかし、三者面談でも、清輝くんは「いじめられていない。みんな、仲のいい友だちです」といじめを否定した。

生活指導担当教師が清輝くんに事情を聞いたが、あいまいな答えしか返ってこなかったため、それ以上深くは追及しなかった。

親や親戚、周囲が、いじめではないかと相談にいったが、学校は対処せず。母親に「精神カウンセリングを受けてみては」と勧めるのみだった。

11/2-6 清輝くんの心をほぐす目的もあって、家族でオーストラリア旅行に行く。清輝くんはとても楽しそうだったが、一方でグループへのおみやげを買うのに必死だった。

11/26 祖母の財布から1万2千円が消えたことを知って、父親が清輝くんを問いつめると、「ゲームをやって自分で使った」と言った。取ったことを認めたのは2度目だった。父親は正座して泣きじゃくる清輝くんのほおを平手で打ち、蹴った。「外のお金を取るようになったら、立派な犯罪だよ。施設にも行かんといかんよ」と諭すと、「今度取ったら、施設に行ってもいい」と答えた。

11/27 清輝くんがグループに命じられて盗んだ自転車の持ち主に父と子で謝りに行った。清輝くんは、その日の午後もグループに呼びだされ、金を渡していた。その深夜、自殺。

清輝くんの自殺直後、「執拗にいじめを受けていたらしい」という噂を兄が聞く。
事件前の
学校の対応
同校には、3年前から、校長や教頭ら管理職で構成する「いじめ・不登校対策委員会」があった。清輝くんの場合にも、9月に自転車を壊されたり、目に青あざをつくったことなど、計3件が報告されていたが、対策委員会は報告を聞いただけで、具体的な対応策は取っていなかった
喫煙や遅刻などがもっぱら議題にあがり、いじめについてはほとんど話し合われなかった。
事件後の
学校・ほかの対応
自殺の翌日、学校は教育委員会に「突然死」と報告。校長は全校集会で生徒に、「軽はずみに人に話さないように」と箝口令をひいた。いじめの噂を聞きつけてきた報道陣に対して、「調べたが、事実は出てこない」と回答。

12/3 PTAは緊急役員会を開催。PTA側から会長ら7人が出席。校長らが冒頭、清輝くんの自殺について、「教職員が力不足だった。申し訳ない」と謝罪。学校は今後の取り組みとして、家庭訪問を年1回から2回に増やし、生徒が書く生活日誌を刷新するなど、10数項目の対策を示した。

12/5 両親が学校に、いじめの事実を文書で回答するよう求める「質問状」を提出。
「先生の見られた、気付かれた事実を明確にしてほしい。学校側に誠実な対応を求めたい。小さな事件があったであろう。そうした事実を思い出すままに書き出してみてほしい」と要求。
また、清輝くんが「おぼれさせられたのは殺人に等しい行為だと思うかどうか」「今後のいじめ対策」など、7項目にわたって質問。

12/7 学校側が、「質問状」に対する回答書を非公開にする旨の念書を要求したため、遺族は受け取りを拒否。

12/8 学校は担任やいじめていた生徒らに事情を聞き、「大河内君の自殺に至るまでの行動概要と背景」の一部を記者会見で公表。94年3月から10月までに教師らが気付いた清輝くんの行動と教師の対応等が6枚の紙にまとめられていた。

「清輝君は、問題を起こしやすい生徒たちのグループに加わっていた。しかし、一つひとつの行動が彼に対するいじめ行為であるという認識は持っていなかった。いじめの認識が甘かった。教師間の意志の疎通が悪く、このような事態を招いてしまった」として、自殺原因がいじめであることを初めて認めた。

記者会見で「自殺の原因は何か」の質問に校長は、「いじめが主原因だったと思うが、
引き金は、自殺当日午後の金銭要求や、前夜や当日の朝にお父さんが厳しくしかりつけたり、諭したことなど」と、自殺の直接の引き金が遺族側にもあったと言及。しかしすぐに、「あ、すいません。行きすぎました。このへんはまだ、調査中です」と言い直した。

それに対して父親は、「私がその日怒ったことの意味については(清輝は)理解していたはずだが、自分の思いが言えないつらさが、引き金になったと言えなくもない。それ以前にあったいろいろな過程とどっちが(自殺との)かかわりが大きいかは、分かるはずだ」と話した。

12/9 行動記録を公表したことを、父親が「私たちに念書を求めながら一方的でおかしい」と批判するが、公開問題は保留のまま回答書を受け取る。

12/10 PTA臨時総会を開き、校長が事件について、父母らに謝罪するとともに学校が調査した清輝くんへのいじめの実態や今後の対策について説明した。

12/11 回答書を「非公開」で合意。

遺族の知人から話がいき、教育委員長が学校にいじめの調査と遺族への報告を厳命。作文をはじめ、保健日誌、職員会の記録簿、担任教師の手帳等を見せてもらう。

5人の教員を処分、新年度から校長を異動。
法務局の対応 12/ 名古屋法務局人権擁護部は、「西尾市東部中学校いじめ自殺事件特別調査班」を設置(「子ども人権オンブズマン」ら専門委員計8人で組織)。同校、市教委から事情を聞く。
調 査 1 12/8 学校は担任やいじめていた生徒らに事情を聞き、94年3月から10月までに教師らが気付いた清輝くんの行動と教師の対応等を「大河内君の自殺に至るまでの行動概要と背景」にまとめて発表。(一部を抜粋)

3月中に、彼の家で彼と同級生らが、プロレスごっこを行った。

4/8 彼と他1名が、同級生を殴った。他の同級生に指示されたことを打ち明けた。

4/11 彼は保護者とともに学校で指導を受けた。殴った生徒への謝罪を勧めた。

4/13 指示したと考えられる同級生等を指導したところ、その事実を否定した。その経過をその同級生の保護者に伝えた。

4/21 彼の様子を心配した担任は、小学校時の様子を小学校教諭から聞いた。

/16 担任が家庭訪問をする。「問題の多い生徒たちと一緒にいることが多いので、もう少し強い意志で断れるとよい」と伝えた。

5/25 音楽の授業で、彼と同級生等はかたまって、ほとんど歌わず話をしたりふざけたりする。これが2学期以降も続く。

6/16 彼と同級生が、じゃんけんゲームで遊んでいた。そのゲームの中で、同級生等は悪口を言う命令の結果、殴り合いになった。

6/30 彼が給食時に教室で女子に対して悪口を言ったため、担任が彼にその理由を聞いた。そして、「もし命令されているのなら言ってほしい」と尋ねたが、何も言わなかった。次の時間にも授業中にふざけた態度を取ったため担任が、強く注意をしたら、彼は机をたたいて「ちくしょう」と反発した。それを見ていた同級生が「なんで彼をしかるのだ」と担任へ反抗的な態度をとった。担任は、「君の命令ではないか」と問いただしたが、その同級生は否定した。担任は、彼の母親に電話で事情を説明した。

6/30 彼らが下永良神社に集まっていた。3年生が通りかかり、たばこの吸いがらを見つけ、やめるように注意しその中の数名を殴った。

7/11 彼らが上永良神社に集まった。そこに3年生が数名やってきて、喧嘩になった。その時、彼は3年生に「あの子たちといて、いいのか」と聞かれ、「楽しいからいい」と答えた。

7/14 学級PTAで、彼、母親、担任の三者で懇談をした。彼の学習成績が下がったことと、生活を見直して欲しいことを話したら、彼は涙を流した。母親は、ハンカチを差しだし彼の涙を拭いた。母親は、「私は、息子のことはわかっていますから」と言った。

7/15 彼らによる小園の神社での、喫煙、花火、神社へのいたずらがあった。(彼は喫煙していなかった)

7/20 保護者に来校してもらい、学年主任より事実の説明と今後の指導をお願いした。

7/25 彼の保護者から「息子が剣道の初段の検定料だといって、7000円を祖母から持っていったが本当か」という電話を受ける。嘘であったので、本校教諭が彼から事情を聞いたところ、「昨日エレキランドで、ファミコンソフトを買ってしまった」と言った。エレキランドで確認をしたが、彼は3500円の2つのソフトを指さし、次の日にそのソフトを教諭に見せた。教諭は保護者・叔母にその旨連絡した。

9/16 学年会で彼の様子について話し合う。同席した養護教諭は「視線が定まらなかったり体のゆれがとまらなかったりすることがあった」と報告し、心理テストの実施を勧めた。

9/17 心理テストを実施した。その時の様子は前回と違い、安定して素直な状態であった。書いたものの全てをみると、「友達はいい人、クラスのみんなは優しい、将来はいい高校、いい大学に入り、いい会社に入りたい。勉強は大切、成績は上げたい」と書かれていて、(中略)ますます心配になり学年の先生に相談してカウンセリングを受けることを相談する。

9/21 彼は、昼放課時に上はジャージ、下はトランクス姿で走っているのを養護教諭に発見され、注意を受けた。「どうしたの。そんな格好で」と尋ねると笑っていた。

9/22 同級生数名が刈谷署に保護された。彼らは17日から家出していた。同級生の1人が乗っていた自転車は盗難自転車で、それは彼が8月下旬に盗んだものだと主張した。

9/24 彼は父親と刈谷署に出頭した。その後、2人は学校に来て、刈谷署には「自転車はグループの1人にとらされた」と主張したと報告した。
父親は「8月に岡崎で自分で転んで自分の自転車を壊したと言っているが、自転車の壊れはいじめてはないか調べて欲しい」と言った。本校教諭は、彼に「誰かにやられたのか」と尋ねたが、彼は最後まで「自分で転んだ」と言った。

10/4 彼は保健室に小さなけがの手当に来た。養護教諭が「そのあざはどうしたの」と聞くと、「走ってぶつかった」と言った。「そんなけがにはならないはず」と問い直したが「走って防火扉にぶつかった」と言った。

10/22 体育館で担任が彼らがプロレスごっこをしているのを見かけた。担任は、過激なのでやめさせた。
調 査 2
(証言ほか)
1994/4 清輝くんは同級生の命令で、ある生徒をたたいた。命令した同級生の名前を教師に打ち明けると、同級生は否定し、「『Aがやれと言った』ことにしろ」と清輝くんに迫った。それを耳にしたAくんの怒りは、今度は清輝くんに向けられた」(95/12/5毎日新聞に掲載された同グループでバシリ2号と呼ばれていた少年の証言

自転車屋の店主らが、清輝くんの自転車がたびたび壊されるのを見て、同中の教師2人に話し、「いじめがあるのなら、芽のうちに摘んでおいたほうがいいのでは」と指摘し、教師らは「わかりました」と答えていた。

清輝くんへの現金要求は10回以上行われ、その都度、加わった生徒が入れ替わっていた。清輝くんは、友だちから借金をしたり、大切にしていたゲームソフトを売って、お金を工面していた。清輝くんから金を取っていたいじめグループの一部が、他の生徒にも金を要求していたことが判明。

清輝くんの自宅から約10キロ離れたゲームセンターで、少年たちはたびたび目撃されていた。清輝くんはほとんどゲームはせず、他の4人が獲得した景品の荷物持ちをしていたほか、顔が腫れていることもあった。少年らはゲーム機に清輝くんの顔を記憶させ、殴るゲームをして楽しんでいた。

同クラスでは、Aや目立つ女生徒らの主張で、掃除の班や席順も「好きな者同士」になっていた。グループの大半が教室の窓際に列をつくり、清輝くんは一番前の席だった。授業中、後ろから2番目に座るAの指令で、清輝くんは「早くやめろ」「つまらん」と教師へのヤジの口火を切っていた。Aが点呼すると、「パシリ」たちが教師の話をさえぎって「はい」と大きな声で返事をした。給食時間は、グループのみんながAの好物のゼリーなどを一品ずつ「貢ぎ物」として差し出した。清輝くんは水筒を持ち歩き、グループにお茶をついで回っていた。

プロレスごっこでいじめられているのを見たという証言もあった。清輝くんは使い走りにされ、暴力を振るわれていたが、
クラスのみんなは仲間だと思っていた。一方で、清輝くんが女子更衣室を何度も開けるため、「清輝くんは絶対やらされている」と数人が担任に報告していた。清輝くんがひざまずいて数人に殴られていたときに教師が来て、「何をしてるんだ」と聞いたら、「僕たち遊んでいるんです」と答えたところ、教師はそのまま立ち去ったという生徒の証言もあった。

女子生徒がいる前で、ズボンを下ろして、コンドームをはめさせられて、自慰を強制されたことがあった。


11/27 自殺した当日、自宅で昼食を済ませたた清輝くんは午後1時30分頃、「勉強しに行って来る」と言って自転車で外出。途中、市内の商店にいた、いじめグループの4人が偶然、清輝くんを見かけて「金を取ってこい」と命じた。清輝くんは「もうお金ない」と言いながら自宅に戻って現金数千円を持参。しかし、数人が「これじゃ少ない。もっと取ってこい」と命令。午後3時頃、同中の生徒が自宅に向かっている清輝くんを見かけて声をかけたが、自転車に乗ったまま振り向かずに手を振ってこたえ、走り去った。これが生前の清輝くんの最後の目撃となった。
作 文 12/2 学校側が生徒全員に作文を書かせる。

「清輝君は優しすぎた」「毎日パシリになっていた。2年になりいじめがエスカレートしたようだった」「C組の友達か、清輝君がみんなからいじめられてかわいそうだ、と聞いていた」などと書かれていた。
一方で、「苦しんでいたなんて、知りませんでした」「彼はふつうに見えた」「命をそまつにしたのはいけない」と書いた生徒もいた。

作文には、いじめていた少年の名前も記されていたが、校長は記者会見で「本人の申し出がないといじめと確定できない」と発言。
調 査 3 遺族が愛知県西尾市に対し、情報公開を請求。市から得られた資料の中には、清輝くんがグループに命令されて同級生をたたいたことを学校は「いじめ」と捉えていたが、学校が遺族に提出したものには記載がなかった。
担任教師の対応 同クラスには37人の生徒がいた。内21人が男子。Aのグループは清輝くんを含めて8人いた。
担任の女性教師は、清輝くんを問題行動を起こす(いじめ)グループの一員と考え、彼だけをグループから引き離そうとしていた。

5月中旬に家庭訪問をした際、「問題の多い子たちと一緒にいるので、強い意志で断れるとよい」と指示した。しかし、清輝くんからは、「仲間といると楽しい。離れたくない」との言葉が返ってきたため「(それ以上)強く踏み込めなかった」としている。

また、授業でふざけたり、給食の時間にクラスメイトの悪口を言ったりしたため、「(だれかに)命令されたら言ってほしい」などと声をかけていた。


担任は20代の女性で、前年の93年には小学校1年生を教えていたが転任。いきなり中学2年生の担任になった。「教師が不合理なことを言うと、いじめグループ数人が大声で反抗しだし、担任の名を呼び捨てにして『下がれ、下がれ』とはやしたてた。それをきっかけにみんなが騒ぎ始めた」という証言も。また、リーダー格の少年は、「担任に注意された印象はない」と言う。担任は、机に「死ね」と書かれたこともあった。
加害者 Aともう一人の少年は清輝くんと同じ小学校の5、6年生の頃からの遊び仲間だった。小、中とも剣道部で一緒だった。休日もゲームやカラオケ、釣りなどをする遊び仲間が拡大したグループだった。

いじめグループのリーダー格のA少年は「社長」と呼ばれていた。
Aは、2年生になってムースで固めた短めの髪を少し茶色に染めた。制服のズボンはももの部分が太い「ボンタン」だったが、上着は標準服。体は大きくなかったが、グループの中では腕力がずば抜けていた。

教師、保護者立ち会いのもと、加害者の少年たちから何度も話を聞く。「小6の時に3人で決闘して、清輝くんが一番弱かったので、いじめるようになった」のがきっかけ。4人の生徒が、現金を要求していたことを認める。「30〜50万円を清輝君から受け取った」「お金をとってるうちに感覚がまひしてためらいが消えた」と話す生徒もいた。7月中旬、矢作川で清輝くんを何度も足をかけて倒したり、突き飛ばしたりした。川でのリンチは、遺書にあった以外にも数回あったことを全員が認める。一部の少年は、いじめるのが楽しかったと告白。清輝くんが自殺した後は、「黙っていれば分からない」と話し合っていた。

1年生の時は要求金額が2〜300円程度だったが、次第に「3(万円)持ってこい」などと万単位になった。持ってこないと、たばこの火を押しつけた。Aは、「強盗してでも金を持ってこい」と脅していた。清輝くんらに別の同級生の家に盗みに入らせたこともあった。

西尾市教育委員会の調べで、上記4人を含む計11人の生徒が、いじめに関与していたことが判明。2年生の5クラスほとんどにまたがっていた。生徒らはそれぞれ、「現金を少し取った」「いじめを知っていながら、グループからおごってもらった」「川でのリンチをそばで見ていた」「自分も加わって手を出した」ことを認めた。

「社長」の下には、「極悪軍団」などと呼ばれる生徒が数人おり、さらにその下に「パシリ」「召使い」として清輝くんら2人前後がいた。序列は、「社長」を除いて、たびたび変わった。脅し取った金は一旦リーダー格に集まり、序列に従って配分される。グループの下層に属する少年は被害者になることもあった。清輝くん以外のメンバーもモップで殴られ、現金を要求されていた。

少年たちは清輝くんから奪った金で、ゲームセンターの遊興費やテレビゲームソフト、釣り具を買うのに使っていた。

いじめた少年たちは警察の調べに対して、「優しい性格で逆らわなかったから」と供述した。
加害者の過去 グループのうち数人は1年生のとき3年生に殴られ、金をたかられていた。Aも3年生の「パシリ」だった。1年生の時に命令で、文化祭で配られた抽選券を脅し取って「上納」したこともあった。その3年生たちも、2年前には当時の3年生からたかられていた。
謝罪文 いじめグループの4人が謝罪文を書き、遺族に手渡した。
1年生の終わり頃から「近くの神社で、同級生4人ぐらいと一緒に殴ったりけったりした。初めのうちは、同級生が部活動の帰りに清輝君を呼んで、殴ったりしていたけど、夏休み前ぐらいから日曜日も遊ぶようになり、毎日っていうほど、殴っていた」「一番ひどかったのは、川でのいじめ。清輝君が『助けて』と言ったけど、皆無視していじめていた」「夏休みに入ってから、先生に見つかり、ちょっとの間いじめなくなり、ちょっとたってからまたいじめるようになった」「初めてお金をもらったのは2年生の初めぐらいだと思う。何回お金をとったか分からないけど1回に1人1万円ぐらいもらっていた」「
先輩にいじめられていたけど、今度はいじめる方になった
などと書いていた。
加害者の
処分
1995/2/10 愛知県警と西尾署は、男子生徒11人の内4人(中2・14)を恐喝の疑いで書類送検。恐喝に積極的でなかった7人は補導にとどめた。

4人の保護者が、遺書とともに残されていた手書きの借用書に書かれた114万に見合う金額を遺族に返済。

4/4 同級生3人を初等少年院(2人は長期、1人は短期)、1人を教護院(現・自立支援施設)に送致
※長期少年院送致の平均在院期間は約1年、短期は約5カ月。(「いじめ問題ハンドブック」/日本弁護士連合会)

名古屋家裁岡崎支部の裁判官は、「4人は、事件の重大さにしおれ切っている。が、長期間にわたる暴行やいやがらせを執拗に繰り返していた点を総合的に考慮した」「長い間、清輝君の苦しみに気が付かなかった重みを受け止めて欲しい」と述べたという。

家庭裁判所に対する送致事実は、原付自転車の窃盗と7件の恐喝。
恐喝の内訳は、主犯格のAが7件で44920円、共犯のBが2件で7700円、Cが1件で12500円、Dが1件で10000円。(恐喝は6カ月でおよそ120万円あると思われるが、裏付け証拠が十分でなかったため送致事実は7件にとどめたとされる。矢作川での事件は、かかわった生徒たち一人ひとりの認識や行為の特定が困難なことから暴行容疑の立件ができない)

少年院送致処分となった3人の内1人の付添人は処分を不服として抗告。
名古屋高等裁判所は抗告棄却。


異例なほど重い処分として、「いじめは少年院に送る」という見せしめにされたのではないかという批判の声も上がる。
その他の
いじめ事件
6年前の1988年12月中旬、同中でいじめが原因で自宅物置で首吊り自殺をした男子生徒(中2)がいた。校長は「遺書もなく、自殺の原因はよくわからなかったが、交友関係に悩んでいたようだ。いじめのうわさがあり、十分に調べて生徒からも話を聞いたが真相はわからなかった」と説明している。

清輝くんの他にも、いじめられている生徒があり、自転車が壊されたことを教師に訴えた。その後、家族が子どもの体に殴られたようなあざを見つけて病院に連れて行ったところ、「これは転んだりした傷じゃない。蹴られたりした傷」だと言われた。(学校に相談しても無駄だと思い、親は学校には言わなかった)

清輝くんと同じいじめグループの中で、「パシリ2号」と呼ばれていた。最初、いじめの矛先は少年に向いていたが、94/4の事件以来、清輝くんと立場が逆転した。
誹謗・中傷、ほか 同級生の中から、「親に言わなかったのが悪い」「ほかのパシリは時々逆らっていたのに、清輝は服従しっぱなし」など清輝くんを非難する声もあった。

親たちからは、「騒いだことで地域に泥を塗った」「受験で不利になった」として、遺族を非難する声もあった。匿名の男性から「いつまで学校に文句を言っているんだ」と電話がある。
「清輝くんの兄が昔、加害少年らをいじめたことがあり、その仕返しを受けた」などの噂が流れた。

受験を控えた3年生の父母から、「いじめ事件を起こした東部中の高校推薦枠がなくなったのではないか」という問い合わせが市教委に数件あった。市教委は「推薦枠は従来通り」と説明。
その後 12/8 西尾中学校の職員室前に、生徒の心の悩みを打ち明けてもらう「ハートボックス」を設置。教師と生徒が一対一で語り合う「ふれあいタイム」を充実、教師が校区内を巡回する「愛のパトロール」を実施。

生徒たちは祥月命日にきて焼香。また、いじめをなくすための自主的な取り組みが行われる。

終業式を前に生徒から「3年生になったら清輝くんの写真をクラスに置きたい」「(3年生の名簿に)清輝くんの名前も残すべきだ」などの希望が出たが、担任は取り合わなかった。

清輝くんの父親・祥晴さんを中心に、「いじめ・不登校に学ぶ会(仮称)」を結成。いじめ再発防止や学校教育のあり方を問う。

清輝くんの事件を受けて、文部省はいじめの定義付けを行ったほか、いじめられる側にも責任があるとの考えを一掃し、いじめの早期発見・早期対応の具体的な指導を全国の学校に周知徹底した。
影 響 1995/2/6 愛知県知多郡阿久比(あぐい)町の少女(小6)が、大河内清輝くんの自殺を話題にし、「私も死のうかな」と家族に漏らしてた後、首を吊って自殺。「こんな人生に耐えられません。楽しい思い出をありがとう」と便せんに書いた遺書が見つかった。
教師の処分 愛知県と西尾市の教育委員会は、関係者9人を処分。
校長を減給(10分の1を3カ月)。
教頭を戒告、生徒指導主事、学年主任、学級担任の3人を訓告。
西尾市教育長を減給(10分の1、2カ月)。
市教委の職員2人と県教育長を訓告。
関 連 1999/6/15 最高裁第三小法廷(金谷利広裁判長)は市民団体の代表が愛知県教育委員会に、当時の校長らの処分に関する文書の公開を求めた訴訟上の上告審を棄却。
二審の名古屋高裁の非公開処分判決が確定した。
参考資料 月刊「こども論」1995年6号 4月1日−4月30日/クレヨンハウス、月刊「こども論」1996年2号 12月1日−12月31日/クレヨンハウス、「清輝君がのこしてくれたもの」〜愛知・西尾 中2いじめ自殺事件を考える〜/中日新聞本社・社会部 編/1994年12月海越出版社、総力取材「いじめ」事件/毎日新聞社社会部編/1995年2月10日毎日新聞社、毎日ムック 「戦後50年」/毎日新聞社、『せめてあのとき一言でも』/鎌田慧/1996年10月草思社「ルポ いじめ社会 あえぐ子どもたち」/村上義雄/1995年5月15日朝日文庫、「子どもの問題」/芹沢俊介/1995年12月春秋社、大河内祥晴さんの話、いじめ・自殺・遺書 「ぼくたちは、生きたかった!」/子どものしあわせ編集部・編/1995年2月草土文化、「いじめ時代の子どもたちへ」/芹沢俊介・藤井東(はる)/新潮社、「いじめ問題ハンドブック」−学校に子どもの人権を−/日本弁護士連合会/1995年6月10日こうち書房、季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」の中の「上越春日中いじめ自殺事件」/近藤昭彦(弁護士)/2000年9月エイデル研究所、イジメブックス イジメの総合的研究4 「イジメと子どもの人権」/中川 明 編/2000年11月20日信山社君和田和一・西原由記子/1995年7月京都・法政出版1999/6/16朝日・夕、1994/12/13中日新聞(月刊「こども論」1995年25月号/クレヨンハウス)、1995/11/21朝日新聞・夕刊(月刊「子ども論」1996年1月号/クレヨンハウス)、1994/12/27北海道新聞(月刊「子ども論」1995年2月号/クレヨンハウス)1995/3/3東京新聞・夕刊、1995/3/25沖縄タイムス・夕刊(月刊「子ども論」1995年5月号/クレヨンハウス)



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