「絡みあった日米の戦争犯罪/戦争責任と歪められた民主主義」
報告要旨
田中利幸
戦後これまで、なぜ日本人は、アジア太平洋戦争(1931-1945年)という侵略戦争を起こしたことに対し、また戦時中に日本軍/日本人が行った様々な残虐行為に対して、誠実な集団的責任感を育むことができなかったのか。そしてなぜ今も育むことができないでいるのか。もちろん、責任感は正義感と密接に関連しており、集団的正義感は民主主義の理念と実践にとって不可欠な要素である。したがって、戦争責任問題に真摯に対応できないということは、単に歴史観の問題ではない。それは根本的には日本の「民主主義」の瑕疵の問題である。
日本の集団的正義感がなぜこれほどまでに脆弱なのかを理解するためには、日本人の集団的戦争責任意識の欠落の国内的理由を考えるだけでは不十分である。それを解き明かすには、日本人の戦争責任に対する考え方が、アメリカ人の戦争責任に対する考え方と相互に密接に絡み合ってきたことを明らかにすることが必要である。私の考えでは、この複雑に絡み合った日米関係こそが、戦後日本の「民主主義」を歪め、今もなお特定の形で強く歪め続けている。
日本政府による日本の戦争残虐行為の度重なる否定と、日本国民の深い戦争責任意識の永続的な欠如は、戦勝国と敗戦国の相互関係における複雑な歴史的プロセスの結果である。日本の現在の「民主主義」は、このような基盤の上に成り立っている。歴史家はこれまで、日本の集団的戦争責任の不在を、日米の相互関係の観点から検証することを怠ってきた。
私の報告の目的は、戦争責任をめぐるもつれた日米関係を5つの視点から簡潔に分析することで、日本「民主主義」の歪みを解き明かすことである。1つは、日本の残虐行為と戦争犯罪。第2は、民間人を標的にした米国の無差別爆撃大量虐殺の犯罪性である。第3は、天皇裕仁の戦争責任に関する戦争直後の日米の共同隠蔽画策(そしてこれがアメリカの非道な無差別空爆大量虐殺の隠蔽とどう結びついているのか)である。第四は、この二重の隠蔽が、1946年に制定された日本のいわゆる平和憲法に内在する矛盾をどのように生み出したかということである。最後の包括的な焦点は、現在の日本の「民主主義」の欠陥と失敗をよりよく理解するためには、このダイナミックな連結を理解する必要があるという点である。