5月13日-14日 G7広島サミットを問う市民の集い-フィールドワークに参加して

5月13日-14日 G7広島サミットを問う市民の集い-フィールドワークに参加して

木元茂夫(賛同人、「自衛隊は何をしているのか」編集委員会)

フィールドワークで最初に案内されたのは、広島市内の比治山にある、ちょっと変わった外観の建物。強い違和感があった。「日米共同調査機関-放射線影響研究所」という看板のせいだったのかも知れない。おおよその見当はついたが、正確な知識は何もなかった。広島の人々には自明のことなのだろうと思いつつ、 最近、読んだジェームズ・L・ノーラン(戦後、原爆の「生物学的および構造的被害の評価」に関わった米国人医師ジェームズ・F・ノーランの孫)の『原爆投下、米国人医師は何を見たか』(2022年原書房)を読み返してみた。

「日本側は、合同調査委員会および原爆傷害調査委員会に対して幻滅感と憤りを抱いており、その一部はもっともな理由によるものだった。アメリカ人医師は、被ばく者(広島と長崎の原爆生存者)を、治療を必要とする患者としてではなく、研究すべき科学標本として扱っているふしがあったのだ。この時期のアメリカ人の行動には、ほかにも怒りを買うものがあった。たとえば、日本の撮影班が広島と長崎の様子を記録した4500メートル以上もあるフィルムを没収したり、2台のサイクロトロン(アーネスト・ローレンスら考案のイオン加速器)を分解したりした。1975年、原爆傷害調査委員会は、放射線影響研究所(RERF)に改組された。同じく日米合同のプロジェクトだが、日本側がより主導的な立場にある」

戦後の広島の苦闘、20万人を超える膨大な死者と深刻な健康被害、そして、さまざまな屈辱、その一端に触れた気がした。

■次は陸軍墓地。西南戦争から第2次大戦までの戦死者の墓地。全国各地から動員された兵士の墓碑があった。1900年の義和団鎮圧戦争(「北清事変」)で戦死したフランスの軍人7人の墓が、印象に残った。

■次は陸軍被服廠支廠。1913年に建てられた建物だ。横須賀にも戦争遺跡はいろいろあるが、同時期に建てられた建物はないようだ。旧海軍横須賀鎮守府の建物は関東大震災で倒壊、震災後に再建されているから、建築様式はまったく異なる。

■次は宇品港。堀川恵子さんの『暁の宇品-陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』を昨年読んで以来、実際に見たいと思っていた港である。当時の岸壁の一部がそのまま残っていた。恐ろしく堅固な作りである。78年が経過したいまでも、いささかの損傷もなかった。陸上自衛隊は2024年度に船舶部隊を発足させようとしている。海自には任せておけないほどの物資輸送が琉球弧で想定されるからだろう。もちろん、自衛隊だけではなく米軍の物資もだ。

そして、かつての陸軍徴用船ではなく、サミット警備の海上保安庁の巡視船がひしめいていた。史上空前の100隻を動員して警備にあたるという。

1938年4月7日、8日に農林省で行われた「経済部長事務打合」の「質疑応答要領」には次のようにある。

「本県は広島に第5師団、呉に鎮守府があり且宇品より応召者の出発、凱旋等もあり之が応接に暇なき状態である。この為軍事関係に労力が取られること他府県以上である。又供出品に就いても手近の為他府県に勝る供出をして居ると思う」

「米 その価格騰貴の為、900万円の増収を見ました」

「蚕糸 応召者多き為と、価格低下の為等によりまして掃立の遅延を来たし、8%の減少を見た次第であります」

「畜産 軍馬資源は貧弱なるにも拘わらず大量挑発の為、打撃を受け現在その4割程度の補充を行いました」

「林業 木材は軍需及びパルプ等による需要増加の為価格騰貴せるもこれが乱伐に対し処置を講じている。又製炭は技術を要し応召により廃業の止むなきに至るので婦女子に技術の講習を受けしめて、これが廃業せざるよう対策を講じております」

「水産 瀬戸内海の生産は年々漁獲高減少を見るの状態にあり、なお油が高く労力不足の為、漁村は悲惨な状態にあります」

(吉見義明、吉田裕、伊香俊哉『資料日本現代史11-日中戦争期の国民動員②』1984年大月書店より)

1937年7月7日の盧溝橋事件-日中戦争開戦から一年足らずにして、この悲惨さは何ということだろう。すべてを戦争に動員した時代を繰り返してはならない。

 フィールドワークの後、原爆ドームの前で集会、そのあと、市内をデモ行進した。広島の人々の準備に感謝。

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