浅倉むつ子
(1948年生まれ 早稲田大学名誉教授、労働法専攻)
コロナ以降、世の中の電子化が一挙に進んだ。当然、外出の機会は減って、会議や研究会はほぼリモートになった。しかし減らないのは「ビヨウイン」に行くための外出である。「今日も君はビヨウインかい?」と、夫はあきれている。
一つは「美容院」で、白髪染めのために、どうしても月1回は駅前のお店にでかける。もう一つは「病院」である。こちらは年齢とともに診察券が増える一方で、眼科、歯科、皮膚科、婦人科、呼吸器外科と、やたら忙しい。
そのなかで、もっとも信頼しているA先生がいるのは、近所の小さな診療所だ。そのA先生から、数年前に、腎機能が低下していると言われた。このままいくと、将来、透析を受けなければいけなくなるとのこと。自覚症状がないのでびっくりした。
じつは10年ほど前に、地域の大病院で癌の手術を受けた。以来、定期的にその大病院で、かなりの回数にわたりCT検査を受けてきた。A先生が言うには、CT検査時の造影剤は腎臓に負担がかかるから、それが原因かもしれないとのこと。診療科ごとに独立している大病院では、他科の担当である腎機能など気にせずに検査しているのだろう。うっかり病院まかせにしてはいけないと、おおいに反省した。
そこで今は、腎機能の低下を防ぐ薬をもらいに、定期的にA先生の診療所にも通っている。我が家から歩いて3分の診療所は、きわめて古く、狭い待合室は混雑をきわめ、待ち時間も半端ではない。「あそこに行くと病気になりそうだ」と言いながらも、私たち夫婦はA先生を主治医にしている。
先生は話し好きで、患者一人ひとりに時間をかけ、病気を見逃さない「名医」だし、看護婦さんたちは親切でテキパキと働いている。そんな気持ちのよい診療所だから、建物が汚くてもスリッパがボロでも、文句を言わずに遠くから通っている患者も多い。
2026年のある日、午後4時すぎに診療所に行ったところ、張り紙があった。「3月1日から始まった電子化のため、これまで以上に待ち時間が長くなります」という。電子化で便利になったら時間短縮になるのでは?どういう意味だろうと、患者さんたちも首をかしげていた。実際、いつもよりも長時間待たされた。「座りすぎてお尻が痛いわ」というお婆さんもいて、みんな、うんざりした様子。
もう診察時間はとっくに過ぎた午後7時ころに、ようやく呼ばれてA先生に会った。先生は、大きなPC画面を前にして、「こういうことになっちゃって。苦手な画面入力に時間がかかってねえ。これを機に医者をやめようという友人も多くなりました」という。
マイナンバー保険証の流れでこうなっていることは予想がつく。これまで患者の顔をみながらたくさん話をしてきたA先生は、画面と私の顔を交互にみながら、やっぱり多くの世間話をしながら診察してくれたので、ふだんの倍近い時間がかかった。A先生のようなお医者さんがこれを機に引退してしまうのは、理不尽きわまりない。医療の後退だ。
調べてみたら、日本医師会の調査があった(「紙カルテ利用の診療所の電子化対応可能性に関する調査」2025年)。電子カルテの導入には、半数の診療所が「導入不可能」と回答し、「費用が高額」、「操作に時間がかかり診察が十分にできない」、「セキュリティやシステム障害に対処できない」などの理由をあげている。IT化に対応できる職員の確保は難しい、紙カルテのままでも医療が継続できるようにと、切実な意見もあった。それでも電子化が進められているようだ。
電子化が「不便」を引き起こし、医療レベルも低下させる。ささやかな満足を与えてくれていた日常が壊されていく。おかしいぞ~。
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