二瓶由美子(元桜の聖母短期大学教授、憲法をいかす福島県民の会呼びかけ人)
あの日から15年が経ちました。3月11日という日は、東日本大震災で被災したすべての人が思いを深める日です。この間、覚悟と葛藤を抱えながら「情報と教育」を念頭に福島で働き続けた私にとって、昨年の南相馬市小高区1での高橋哲哉東京大学名誉教授との対談は、回復への一歩となりました。
大学進学を機に上京する18歳まで福島で生まれ育った高橋氏は、多くの著作や論文で原発問題に言及されていますが、「憲法をいかす福島県民の会」の呼びかけ人でもあり、呼びかけ人の一人となった私に多くの学びを与えてくださっていました。あるとき、東日本大震災後の「アカデミア・コンソーシアムふくしま」2の取り組みの一つである「福島学」での桜の聖母短期大学の実践をお話したことがきっかけとなり、小高夏期自由大学3の企画としての対談に誘ってくださったのです。
小高夏期自由大学は、2022年10月からそれぞれ月に一度、小高伝道所を会場として行われていた住民の交流の場である「小高への想いを語る集い」と「小高を愛し、小高を語る自由人の集い」の総集約としての意味を持つもので、2023年9月に145人が参加して住民目線で語られた実り豊かな集いでした。その実りは、『心折れる日を越え、明日を呼び寄せる』と題する新書として、2024年9月にヨベル社から刊行されています。2024年には第2回小高夏期自由大学が行われ、小高に生きる人々の息吹が共有され、翌年『苦難の日々を心に刻み、再生へ向かって歩む』として、2025年11月に出版されました。この新書に、飯島信牧師4の進行による高橋氏と私の対談が収録されています。
対談の冒頭は3人の福島との出会いが語られ、私は高木仁三郎氏の著書などから学んでいたため、立地する原子力発電所への不安を意識しながら移住したことを語っています。いつの間にかその不安を忘れていったことや、後年地元テレビの県政番組でコメンテーターをしていた日々に、東京電力のトラブル隠しやデータ改ざんなどについて取り上げながら何も行動しなかったことを悔いていることも。
そして、震災当日の恐怖と絶望、学生たちとの避難と夜通しの見守り、翌日以降原発立地地域から避難してくる人々とのかかわりや放射線による健康被害への対応などを鮮明に思い出しながら、家族を失った在学生を脳裏に浮かべつつ、地震、津波、原発事故、という「死」につながる記憶を語りました。
地震によるビルの倒壊や津波被害はなくても、福島市内はライフラインを絶たれ、60㎞離れた爆発した第一原発から風に乗って降り注いだ放射性物質への対応で日常が奪われました。東京の女子大教員から、学生たちを避難させるなら寮を提供するという申し出があり、学長に相談しましたが却下、別の大学教員からは海外への避難を勧められましたが、非現実的な提案でした。津波の報道と同時に原発事故を想定して西日本に自主避難した友人とは、疎遠になりました。強制避難を強いられた人だけでなく、自主的に避難を選んだ人々もいて、残ることを選んだ人、残らざるを得なかった人々との間に軋轢を残しました。思いがけない別れは、死や避難だけでなく、分断や対立という形をとりました。
運休していた新幹線が運転を再開すると、研究者や支援者がやってきました。クタクタになっている身体を励まして面会を承諾すると、避難や移住を勧められたり、研究のために人を紹介してほしいと依頼されたりで、腹を立てて断ったこともあります。とにかく、子どもたちのために必要な措置をと、伝手を得て若い女性たちと議員会館まで行き、厚労大臣や国会議員に子どもたちの保養制度を至急実現してほしいと訴えましたが、実現しませんでした。被ばくの可能性の濃淡に関わらず、子どもたちや若者を守るのは、国でもなく、福島県でもなく、私たち一人ひとりなのだと自覚しました。
短大は入学式や授業スタートを5月まで延期しましたが、入学予定者は全員進学してきました。一人だけ、母とともに津波で亡くなった入学生の座席には白いユリの花を置き、開式前に黙とうしました。
実は、原発事故の影響で教員の退職も相次ぎ、カリキュラムや時間割にも大きな変更があり、不眠不休の対応が迫られました。震災前から新設を決めていた共通選択科目「福島学」では福島の現在を学ぶことにし、福島で生きるために必要な知識と情報は、必修科目「現代社会論」に盛り込みました。2011年秋にベラルーシとウクライナを視察した私がチョルノービリ原発事故後の両国の試みから得たことは、情報と教育の重要性でした。科学的な思考ができる学生の育成が目標になりました。原発周辺地域などから福島市に避難してきた入学生もいましたし、そもそも福島から離れることを選ばなかった学生がいる以上、彼女たちがその生涯を通して賢く生き抜く力をつけるための共通科目が必要でした。
現状を知って学びを進めるために、南相馬市原町区までバス二台で視察に行ったのは2012年でした。保護者の反対で「福島学」履修を諦める学生もいましたが、履修者たちは津波被害の実態や原発事故を知ろうとしていました。被ばくに配慮して滞在時間や訪問地を慎重に決めて、現地視察や小高区から避難して原町区に住んでいる方のお話をお聞きしました。被災体験を経た多くの学生たちの主体的な学びは、その後の小高区出身の高校生たちとの連携事業へとつながり、2016年まで南相馬市立中央図書館や短大を会場に、交流や共同作業が続きました。実りある学びの日々でした。しかし、短大内部を含め批判も多く、常に「これでいいのか?」「学生の健康被害はないのか?」と問いながらの活動でした。
避難を強いられた町村5が帰還できるようになり、戻った人、移住した人々の営みが始まると、放射線量をめぐって否定的な声も多くなりました。そこに人の営みがあれば、その生活を支える資源が求められます。どこに住み、どのような生活をするのか、各人の選択を尊重したいと思います。不安だけれど、家族とともにそこで暮らす選択をした学生たちのためにできることは、「逃げろ!」と叫ぶことではありません。その選択による不安要素を取り除き、胸を張って生きる力と誇りをリスペクトすることです。
これまでの教育活動と社会活動を通して、広くつながった福島での教育に尽力する友人たちとともに、震災当時幼かった学生たちの思い出を聞き取り、現在の心境を共有しているのですが、若者たちの振り返りや発想から、「避難せざるを得なかった人々」「自主的に避難を選んだ人々」「留まることを選んだ人々」「留まらざるを得なかった人々」の間にある分断と対立を乗り越える道筋が見えるのではないかと考えています。若者たちの経験や提言を生かす未来には希望があります。それぞれの住む場所、この国、そして世界が安全で平和であるために、私たちが取り組むべき課題は、いかにして若者を中心に世代を超えた理解と連帯、対話と共闘を広げていくかだと、強く思う花見山が美しい15年目の春です。
1 東京電力福島第一原子力発電所から20㎞圏内にあり、2011年3月11日の翌日には全住民に避難指示が出され、2016年7月12日、一部を除く全域の避難指示が解除されるまでの5年間は無人の町だった。
2 2010年に発足した福島県内19の大学等と自治体、経済団体等が連携した組織。 地元企業、市町村をなどの地域の組織との連携・協働から生まれる若者の教育と地域・経済振興に資する取り組みを実施。
3 小高復興の現在地を知り、脱原発と平和への道筋を描きつつ、内外との自由な交流を進める大学。
4 日本基督教団東日本大震災救援対策本部担当幹事として、釜石、石巻、仙台のボランティア活動に従事。福島の子どもたちの保養キャンプにも携わる。現在は、小高伝道所・浪江伝道所牧師。
5 福島第一原子力発電所事故による避難指示区域については、現在、7市町村(南相馬市、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)の一部に帰還困難区域が設定されている。避難指示解除準備区域及び居住制限区域の避難指示はすべて解除された。
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