シネマテーク・
インディアス(日本)
1975年、旅行中の南米エクアドルで偶然ウカマウの一作品を観た私たちが、その作品の魅力・力強さに惹かれ、監督のホルヘ・サンヒネス、プロデューサーのベアトリス・パラシオスと会い、話し合った。ウカマウは以前から日本での配給・上映を希望し、国際映画祭で会った日本人を通して日本の配給会社への連絡もとっていたが、いっさい返事はなかったとのこと。
事情を聞いた私たちは日本への帰国後、配給会社と連絡をとり、日本上映の可能性を探ることを約束して、76年末に『第一の敵』を16ミリフィルムで預かり帰国した。以後、いくつかの配給会社と話し合ったが、第三世界地域の映画が上映されることなど稀であった1970年代後半の時代、しかも政治的なメッセージが強い映画の上映可能性はまったくゼロとの回答しか得られなかった。そのため自主上映することにして、まず日本語字幕を入れた。
『第一の敵』は1980年、東京お茶の水のホールで二週連続の金曜日・土曜日に上映、四日間で2000人の観客という、自主上映では上出来の結果となった。作品の評判も良く、伝え聞いた全国各地から自主上映の希望が寄せられ、メンバーのひとりは16ミリフィルムを担いで、各地を回った。上映収入は、フィルム代、字幕制作費、宣伝費、会場費などの必要経費を償却し、残りは制作者に還元することを原則に始まった。
以後、ウカマウの全作品を購入、その都度自主上映を行なってきた。相互の信頼関係が築かれたところで、ウカマウは共同制作を提案、1989年完成の『地下の民』は、シナリオの共同検討・一定額の制作資金提供という形で、その提案が実現した。日本側は一口2000円の債権を発行、上映実現の折りにはその債権で入場可能という方法を編み出した。総額五百万円が集まった。
1995年制作の『鳥の歌』も、やはり共同制作の一貫として実現した。この19年間で、短篇二本、長篇七本のウカマウ映画を観た観客総数は、延べ八万人に上る。名称は『第一の敵』上映委員会で始まったが、途中から『シネマテーク・インディアス』に変わった。