ウカマウ集団とは

南米ボリビアで1960年代半ばから映画制作・上映・配給などの仕事に携わっているグループ。監督はホルヘ・サンヒネス(1936〜)。1966年最初の長篇作品『ウカマウ』が評判となり、サンヒネスらが街を歩いていると「あっ! ウカマウだ」と声がかかるようになったので、それをそのままグループ名に採用したという。「ウカマウ」はボリビアの先住民族アイマラ人の母語にある表現で、あえて訳すと「そんなふうなことだ」となる。

サンヒネスは白人エリート層の出身だが、ボリビアの住民の半数以上はアイマラ人、ケチュア人であり、その人びとと無関係な映画を作ることはできないと考え、出演者には素人の先住民を起用し、アイマラ語・ケチュア語などの先住民の言語を用いた。当時のラテンアメリカ映画界はハリウッド映画に占領され、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなど地元で映画制作が行なわれていた少数の国にあっても、先住民の存在を重視したウカマウ的な映画作りはまったくなされていなかったので、当初の作品から大きな衝撃を観る者に与えた。

ホルヘ・サンヒネス Jorge Sanjinés Aramayo
ホルヘ・サンヒネス
Jorge Sanjinés Aramayo

1969年、米国の「平和部隊」なる援助組織がアンデス地域の女性に強制的な不妊手術を施していた事実を暴露する映画『コンドルの血』を制作して以降、「映像による帝国主義論」の創出を目標に定め、作品ごとに帝国主義の軍事・政治・宗教・経済的な顔つきを描ききることを中心的な課題とした。

その強烈な政治・社会的なメッセージ性ゆえに、外部との軋轢は絶えず、スポンサーが途中で降りたり、ボリビアには現像所がないために撮影フィルムは国外の現像所に持ち出されるが、西ドイツ(当時)の現像所でネガが「破損」したり、ボリビアの税関で「紛失」したりの「事故」のために、二本の重要な作品が完成をみないままに終わっている。

1971年、ボリビアで軍事クーデタが起こってからは亡命し、合計10年間ちかく、チリ、ペルー、エクアドルなどで制作・上映活動を続けた。1982年の「民主化」以降、サンヒネスらは帰国し、国内での制作・上映・配給活動を続けて、現在に至る。ラパス市に小さなスタジオを設け、そこを基盤に、先住民族出身の映像の担い手をつくりだすことに力を注いでいる。

閉じる