現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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世界銀行とIMFを批判するモーリタニア映画を観て
『派兵チェック』第188号(2008年6月15日発行)掲載
太田昌国


 横浜で第4回アフリカ開発会議(TICAD)が開かれていた時期に合わせて、東京アフリカ映画祭特別上映会が上野の都美術館で行なわれた。

3日間をかけて上映された作品はわずか2作だったが、2006年制作のモーリタニア映画『バマコ』(アブデラマン・シサコ監督、バンバラ語+フランス語、112分)はなかなかに含蓄のある作品だった。

 タイトルは、監督自身が子ども時代を過ごしたマリの首都・バマコから取られているようだ。

屋外で、法廷が開かれている。証人が次々と立って言うのは、世界銀行とIMF(国際通貨基金)に対する厳しい批判の言葉である。サハラ砂漠以南のアフリカ諸国は、そのほとんどが、国際金融機関が指示する「構造調整プログラム」の管理下におかれている。

スケジュール通りに債務を返済することができなかった重債務国の政府に対して、世銀やIMFが予算執行上の調整政策を強制する仕組みである。

これは、世界に先駆けてラテンアメリカ地域において実施されたが、そのためにどんな現実が生じたかについては、日本でも現在ではかなり知られるようになった。この政策の本質である新自由主義の脅威に私たち自身の社会もさらされるようになって、貧しい国々での現われ方とは違いがあるとはいえ、身をもって現実の一部分なりとも知りつつあるからである。

 アフリカ諸国においても、この政策がもつ冷徹な論理が貫かれる。上映会に際して作られた小冊子で、監督は語る――農業・繊維などの分野の生産者に対する国からの補助金が廃止され、公共サービスは削減され、病院・教育などの公共セクターでは人員解雇がなされる。

天然資源や水、電力、交通、電信電話などを管理してきた国営会社は、多国籍企業の利益のために私企業化され、多国籍企業の手に落ちる。

債務国を待ち受ける結果は明らかである。民衆の貧窮化、平均寿命の低下、子どもの死亡率の上昇、識字率の低下などである。

しかし、「資金の流出と財産譲渡の合計を見ると、アフリカ諸国は既に債務を大きく上回る金額を支払っている」ことがわかり、監督は憤然とする。


 こう見ると、『バマコ』がずいぶんとストレートな告発映画として出来上がっていることを予想する人が多いだろう。

「含蓄ある」と先に触れたように、そうではない。世銀とIMFを裁く法廷が開かれているのは、実は人家の庭先である。法廷の周辺では、庶民の、ごく当たり前の日常生活が営まれている。

その家に住む若いカップルは、ほとんど離婚寸前なほどに仲が悪い。男に職はなく、女は夜のバーの歌い手として稼いでいる。他にも登場する人物は多い。

布を染め上げる女たち、幼い娘を看病する母親、結婚式を挙げるカップル――みんな、その家や周辺に住む生活者だ。

こうしてさり気なく盛り込まれた日常の風景と、法廷での緊迫したやりとりとが、違和感なく融合して、ある独特な雰囲気を作り出している。


 法廷での発言にも、無理に作られた台詞という感じがしない。証言者たちは、ごく自然に思いの丈を語っている。

監督の語るところによれば、全体的な物語の骨組みと訴訟の流れは事前に作ったが、証言の内容は発言する人びとに任せ、そのシーンについては事後的にも手を加えていないという。

これは、私たちが協働してきたボリビアのウカマウ集団が、セミ・ドキュメンタリーを制作するときの方法論と完全に重なり合っており、興味深い。

世銀やIMFが押し付けた構造調整政策によって、マイナスの影響を身をもって受けた元公務員や市井の人びとが、自分自身の経験を語るのだから、雄弁であることも朴訥であることも、その力を十分に発揮するのである。


 日常生活においても、法廷においても、女性の役割がしっかりと描かれており、それがアフリカ社会の奥行きを示しているものであるようだ。

劇中劇として挿入される西部劇まがいのシーンでは、無関係の通行人を撃つのはアフリカ人である。

これは、アフリカ出身のエリートの多くが欧米諸国の代理人になっていること、世銀やIMFの事業は欧米人とアフリカ人が共同して推進されているという現実に目を向けさせるためのメタファーだと監督は言う。

国際金融機関や先進国の責任を問うだけではない、アフリカ人としての自己批評があることによって、映画は深みを増している。


 さて、映画は観客に恵まれてこそ、その意味を全うできる。その点、この「映画祭」は最悪と思える。

主催は東京都だが、アフリカ諸国首脳が大勢来日するこの機会を、東京へオリンピックを誘致する票集めに利用して、この映画祭を開催した意図が透けて見える。映画祭の宣伝は拙劣で、エネルギーも心もこもっていない。

努力しても不入りな時はありうるが、この場合はそうではないだろう。私が観たときも、定員250人の会場にいたのは20人程度であった。フィルムが可哀相だと思える。


 横浜でアフリカ開発会議が開かれている間は、メディアでも、珍しくもアフリカ関係のニュースが溢れた。従来に比べると多様なアプローチが見られて、読み応え、見応えのあるものもあった。

しかし、日本政府が見せるアフリカへの「熱意」は、石油とレアメタルなどの鉱物資源を軸としており、加えて国連安保理常任理事国入りへの支持を広げる下心も見え見えであった。

『バマコ』で、アフリカ民衆の鋭い批判にさらされた世界銀行やIMFが、G8サミットなどに集まる先進諸国の総意の下で果してきている役割を省みることは、私たちにとって避けることのできない課題なのだ。

「官」からは相対的に自立した地点で、アフリカ映画祭を積み重ねてきたのは、先年亡くなったアフリカ文化研究家、白石顕二氏だったが、その功績が偲ばれる春の午後であった。

 
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