現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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「反カストロ」文書を読む
『現代思想』2008年5月臨時増刊号「フィデル・カストロ」総特集号掲載
太田昌国


 学齢でいえば中学生や高校生の時期だったと思うが、私は社会主義なるものへの関心を抱き始めた。それは、もちろん、その体制が「好ましいもの」として、おぼろげながらも見えてきたからである。

小学校三年のころであっただろう、ソ連の首相、スターリンが死亡した(一九五三年)ことを伝える新聞記事を読んだりラジオニュースを聞いたりしながら、何とはなしにその社会に「暗さ」を感じてはいた。

だがそれから後、その暗さを打ち消してくれるだけの、数多くのソ連讃歌、社会主義讃歌の物語に、当時の世の中はあふれていた。少なくとも、私はそれらに接することができる場所にいた。

「スターリン讃歌」の詩集すらあった(それには、もう少し年長になってからの私が、「戦後文学」の重要な担い手のひとりとしてその作品を読むことになる作家も寄稿していた)。

私が生まれ育ったのは、北海道は東の外れの田舎都市だから、たいした書店もなく、接することのできた書物が多かったとはいえないだろう。

それでも、書店や学校の図書館で、社会主義をよいものとして称え、そのモデルをソ連に求める言論に出会うことは、さほど難しくはなかった。

一九世紀ロシア文学の重厚さと、二〇世紀ロシア社会革命の刺激性を通して、ロシアは若い私を「虜」にした。

同じころ読んだ埴谷雄高の『幻視のなかの政治』(初版、中央公論社、一九六〇年)には、ソ連を語る類書とは異なって、クレムリン指導部に対する深刻な懐疑の表明があって、禁断の味がした。


 社会主義やソ連を「敵」とする言論や、社会主義の立場に立ちながら現存するソ連が抱える歪みを批判する言論に広く出会うのは、一〇代後半になって東京へ出て以降のことである。

スターリンの死を伝える報道を見聞きしながら幼心に感じたソ連社会の「暗さ」は直感的なものだったが当たっていたな、小さいころ読んだものと現実はずいぶんと違うようだな、とても一方的な情報を読まされてきたみたいだな――と口惜しい思いがした。

その種の言論の担い手であったありきたりの左翼や進歩的文化人を、疎ましく思った。新たに知り得た情報に基づく知識からすれば、ソ連はまことに恐るべき抑圧的な体制下にあった。

「夢」とも「理想」とも思った社会の、これが現実なのか! それ以来、私は物事を複眼で見るという態度が大切だと思ってきた。その態度を常に貫くことができているとは断言できないが、そう心がけてきたとは言える。


 キューバ革命に対して、若いころからの私が、深い共感と連帯の気持ちを持ち続けてきたことは、いまさら隠すつもりもない。

だが、世の中、よいことばかりで進むわけではない――キューバ批判やカストロ批判の声にも耳を傾けて、キューバ革命総体の姿を見極めるようにしようというのが、キューバ革命と相対する私なりの方法であった。

その過程で見聞してきた「反カストロ」文書から、汲み取るべき点があるいくつかをここでは取り上げよう。

私が今まで読んできたその種の文書のなかには、私同様、キューバ革命への連帯感を持ちつつも批判すべき点は率直に言うという立場のものもあるが、その文書の書き手がキューバ革命に対する徹底した「憎悪」と「敵愾心」の持ち主である場合もある。

今回言及するのは、基本的には前者に属するものだと私は考えているが、後者といえども機会さえあればそれを読むのは、それをも考察の対象とすることによって、キューバ革命と私たちの関わりが「豊かに」なるという確信があるからである。



一、K・S・カロル
K・S・カロルは、一九六〇年代をふりかえるとき、忘れがたい仕事を残したジャーナリストである。翻訳されているものを挙げると、『毛沢東の中国――もう一つの共産主義』(讀賣新聞社、一九六七年、内山敏訳)と『カストロの道――ゲリラから権力へ』(讀賣新聞社、一九七二年、弥永康夫訳)などがある。

一九二四年ポーランドに生まれたカロルは、ヒトラーのドイツとスターリンのソ連が結んだ一九三九年秘密議定書でポーランドが分割されたときに、ソ連領内に強制的に編入された地域に住んでおり、ソ連市民とされてシベリアの収容所へ送られた。第二次大戦後の彼は、この経験を生かした。

自分自身を確固たる社会主義者として確立しつつも、社会主義の理想からほど遠いソ連および東欧社会主義圏への批判的視点をゆるがせにすることなく、ジャーナリストとしての優れた仕事を行なったのである。


 フランス語原書(初版)が一九七〇年二月に発行された『カストロの道』は、著者カロルが一九六一年、六七年、六八年に四回にわたってキューバを訪れ、カストロおよび(六一年段階では)ゲバラともかなりの時間をかけた対話を行なったうえで、キューバ革命の道程を跡づけようとした力作である。

キューバ革命初期一〇年間の胎動の現実が、手にとるようにわかる本で、おもしろい。この本の中でしか読むことのできないカストロやゲバラとのインタビューでの発言は、カロルが繰り返す挑戦的な質問への応答だけに、この時期に指導的地位にいた人間の思想的根拠があぶり出されている感じがする。

カストロについては、後で触れる他の書物に関わって充分に触れる機会があるので、ここではゲバラに的を絞ることにする。


 カロルがチェ・ゲバラと対面したのは、一九六一年五月、工業省において、であった。ここでカロルが徹底してこだわるのは、「怪しげな価値しかないソ連の文書」がキューバの図書室の書架を占領している現実に対して、である。

それは、ソ連アカデミー会員のコンスタンチーノフ、ミチーン、ルイセンコなどの書物である。

七年間をソ連で暮らし、収容所を脱走して後には同地の有数の大学でマルクス・レーニン主義を学んだ経験を持つカロルは、「社会主義建設に関するある種の考え方がいかに大きな弊害をもたらしたか、を目の当たりに」している。

それこそが「想像を絶するほどの大勢順応主義をもたらし、次には、大衆の非政治化とシニズムへと発展した」現実を目撃している。それだけに、「若いキューバ人に(ソ連と)同じ道を強制」しては「スターリン時代と同じ、知性の半身麻痺をもたらし、その後には、《大転換》とそれにつきものの苦悩がやってくる」と警鐘を鳴らすのである。


 だが、ゲバラは譲らない。「毎日、死と直面せざるをえず、この大陸の歴史にまったく前例のない任務と取り組まねばならない立場にある国においては、良いイデオロギーと悪いイデオロギーの間で逡巡する権利を人びとに認めるなどは、犯罪的で、かつ不条理」だと述べ、「私たちはできるだけ早く若者たちに社会主義思想を教え込もうと望んで」おり、「それで東側諸国の教科書を利用する以外に方法がない」のだが「あなたは、他によい教科書を知っていますか」と逆に問うのである。


 カロルは、ゲバラがミチーンやルイセンコなどの「スターリン主義」学説を擁護しているわけではないこと、彼自身も読んですらいないことを知っている。

「革命の真っ只中にあって、アメリカの海兵隊に取り囲まれている」キューバは、急場しのぎの幹部育成に努めるためには容易に入手できる文献に頼らなければならないが、それによって政治教育が左右されるなどということはあり得ず、したがってスターリン主義がキューバで再発することもないとゲバラが確信していることも知っている。

だが、カストロやゲバラや革命軍の軍服を着たその同志のように「真に革命的な情熱を失わず、到達すべき目標についても、はっきりとした意識をもち続けていた人びとのみ」がいたのではない。

「革命運動の中には常にソ連を第一と考え、スターリンの国に対する無条件の服従という伝統に長い間浸ってきた人びとがかなり多くいた」のである。「一九六〇年一二月以来、新設の革命教育学校では、すでに共産党員が威張り散らしていた」。

だが、スターリン主義の浸透に無警戒な考え方が、将来に禍根を残すことに繋がるのだというカロルの真意は、ゲバラにもカストロにも伝わることはない。

本書は、その意味で、互いに友愛と連帯の気持ちを持ってはいるが、それぞれが位置する場所の相違から生じた、哀しいすれ違いの記録という側面をもっていると言えるかもしれない。


 カロルが本書を記してから四〇年近くを経た現在の知見を、ここへ付け加えてみよう。コンゴ解放闘争を支援ためのゲバラを指揮官とするキューバ人兵士たちの「試行」が、まったくの「錯誤」に終わった一九六五年一一月、ゲバラたちは六ヵ月間滞在したコンゴを去った。

以後ゲバラは、ボリビアへ赴くことになる一九六六年一一月までの一年間、タンザニアのダルエスサラーム、チェコスロヴァキアのプラハ、そして一時期密かに戻ったキューバにおいて、経済学の研究に没頭したという。

出来合いの本に直筆で書き込まれた「評註」を解読する作業は困難を極めているとも言われてきた。筆跡を知る近親者や研究者によって精査されてきたそのときの研究ノートは、つい先年 “Apuntes criticos a la Economia Politica “, ( Ocean Press, Melbourne, 2006) ). として刊行された。文字通り、『政治経済学評註』というべきであろう。

A五判で、四〇〇頁を超える大著を私は大いなる関心をもってひも解いたが、かなりの部分を占めるのが、ソ連科学アカデミーが一九五〇年代に編集したもので、世界中の左翼の間で一時期学習会テキストとして用いられるほど有名であった『経済学教科書』への評註であることを知った。

日本でもかつて合同出版から刊行されていたが、私の考えからすれば、この本もまた、カロルのいう「怪しげな価値しかないソ連の文書」に含まれるものである。


 革命初期のキューバを訪れたフランスの経済学者、シャルル・ベトゥレームや農業経済学者、ルネ・デュモンらがキューバの経済状況を観察した印象を聞いたり、彼らがなした助言をめぐって、前向きの論争をすでに繰り広げたりしていたゲバラが、それから数年を経た一九六五〜六六年段階で、マルクス主義経済学の批判的検討のために参照していたテキストが『経済学教科書』であったという事実に、痛ましい悲劇を思う。それは、理論的逆行あるいは退行とも呼ぶべきことだからである。

もちろん、帝国主義国の労働者階級の位置をめぐって、あるいは植民地支配の歴史過程をめぐって『経済学教科書』の記述の誤りを指摘する評註には、ゲバラならではのものがある。

しかし、「評註」の内容は、テキスト本文を超えることはあっても、それに規定され制約された展開にならざるを得ない。その後選択した生き方からして残り時間の少なかったゲバラが、今さら格闘すべき水準の書物ではなかった、という恨みが残る。


 カロルのこの著書は、このように、キューバ革命をめぐって今なおさまざまな重要な論議の糸口を提供してくれるものである。

一九七一年カストロは刊行された本書を読んで、「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒りを示した」とは『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥル』主筆、ジャン・ダニエルが伝えたことだった(『カストロの道』訳者あとがき)。怒りの核心はどこにあったのか。

それは、キューバ革命への連帯感にあふれたカロルが、「カストロたちが前衛の役割を過度に評価していること」「下部における民主主義が必要なこと」「労働者の創意がよりよく発揮される制度確立が必要なこと」などを説き、「フィデル・カストロの余りにも個人的な統治方法」に批判を加える形で、キューバ内に立ち現われている「スターリン主義的傾向」への批判を躊躇うことがなかったからであろう。これは、翻訳者、弥永康夫の解釈だが、私はこれに全面的に同意する。

カストロほどの人物にして、この書の内容が許容範囲にはなかったこと――一九七一年段階でのこの事実は、フィデル・カストロによる個人独裁体制がとうとう二〇〇八年まで(革命勝利の時点から数えると、およそ五〇年もの長きにわたって)続くことになる未来を暗示していたのである。



二、マリオ・バルガス=リョサ
一九三六年ペルーに生まれたマリオ・バルガス=リョサは、六〇年代後半以降の「ラテンアメリカ文学ブーム」を牽引した優れた作家のひとりである。この時代に活躍したラテンアメリカ知識人の多くがそうであったように、彼もまた当初はキューバ革命に大きな期待を寄せた。

革命直後のハバナには、「カサ・デ・ラス・アメリカス(アメリカの家)」という名の文化施設が出来、同名の文芸・文化誌が季刊誌として刊行され始める。国境で分断されて、互いに知り合うこともなかったラテンアメリカの知識人たちは、ここに集い、シンポジウムや個展を開催して交流し、機関誌上でも相互を知るようになる。

以下に引用するリョサの発言は、一九六二年から八二年にかけて書かれた政治・社会評論を集成した “Contra viento y marea 1962-1982”, Seix Barral, Barcelona, 1983. (『雨風に抗して 一九六二−一九八二』)および前述の機関誌 “Casa de las Americas”の該当する号に拠るものである。


 一九六二年、リョサはキューバに滞在し、その印象記を書いた。ミサイル危機を生き延びた民衆の表情をよく伝え、個人崇拝にも見紛うような、カストロに対する民衆の心情が本質的にはそうした種類のものではないことを洞察し、アナキズムやトロツキスト文献のみならずポルノグラフィーも公然と売られていることに「表現の自由」の証しを見てとり、いわゆる革命党の建設が革命の勝利の後になされたことに、他の社会主義圏と違って頑迷な前衛党が独裁化しないための条件を作り出していることを見るなど、リョサの観察は、新生キューバへの期待と愛情にあふれている。


 一九六三年、友人にして詩人のハビエル・エラウドが祖国ペルーの解放ゲリラ闘争で死んだときには心にしみる追悼文を書き、一九六五年、ペルーMIR(左翼革命運動)によるゲリラ闘争が開始されたときにはこれを支持する共同声明の提唱者でもあった。

一九六六年、ハバナで「三大陸人民会議」が開催されたことを記念してなされた作家アンケートへの回答では、リョサは「現行の体制に代わりうるものは、唯一、社会主義のみである」とも答えている。ソ連では、一九六六年に非体制文学者のアンドレイ・シニャフスキーとユーリー・ダニエルに対して、翌年はソルジェニツィンに対して、表現弾圧が加えられる。

リョサは言う――それは「社会主義とソヴィエトの名を辱めるものだ」が、「われわれが待望する社会主義の世の中にあっては、人間による人間の搾取が廃絶されるだけではない。

作家が自ら書く意欲をもったことを自由に書くことを阻害する最後の妨害物も廃絶されるのだ」。彼はさらに、左翼とは関係のないイギリスのタイムズ紙の論説を共感をこめて引用する。

「マルクス主義イデオロギーの歴史においてソヴィエトに存在しているような検閲は未だかつて、見たことはない。疑う者はキューバ人に尋ねよ。一九五八年(ママ)以来というもの、高度に精緻かつ複雑化したキューバの文学にあっては、表現弾圧のささやかな兆したりとも見られない」。


 だが、事態は急変する。一九六八年八月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約軍が「人間の顔をした社会主義」を求めて民主化運動が高揚したチェコスロヴァキアに侵略する。これが、社会主義のイメージを壊し、右翼を力づける以外のどんな効果があるか、とリョサは弾劾する。だが、より深刻なことには、フィデル・カストロが条件づきだったとはいえ、ソ連軍のチェコ侵略を支持したのだった。

「これまでのあいだ一民族の自治権に関してはかくも敏感かつ警戒心をもって反応してきた、そして小国が大国の介入なしに自らの政策を実現する権利を休むことなく復権させてきた一指導者が、キューバと同じように自らの確信に基づいた社会を組み立てようとしただけの一国の独立を押し潰す軍事侵略を支持することが、どうして可能なのか。

フィデルの態度、惜しむべし。……キューバ革命の真実の友にとって、フィデルの発言が理解を絶し不正なること、プラハに侵入した戦車の騒音にも等しい」。

リョサははじめて、キューバ政府とカストロを公然と批判した。

問題はこれだけでは終わらなかった。一九六八年一一月、キューバ作家美術家連盟は、『ゲームを外れて』と題する作品で前年の文学コンクールの受賞詩人、エベルト・パディージャが次回作でなした表現が、反革命を煽動する以外のなにものでもないと非難した。三年後の一九七一年、事態はさらに展開する。国家治安局が「反乱活動」の容疑でエベルト・パディージャを逮捕したのだ。

これに対して主としてヨーロッパの知識人がキューバ政府による表現弾圧を非難する声明を発表する。リョサが動くのは、この段階である。彼はキューバ政府のパディージャ弾圧に抗議して「カサ・デ・ラス・アメリカス」誌編集委員を辞任すること、およびキューバ訪問の約束を取り消すことを伝える。だが、リョサは依然として冷静さを失ってはいない。

パディージャ弾圧事件は、一九三〇年代のソ連において共産党の文学官僚、ジダーノフの下で猛威をふるったスターリン主義の全盛期を思い起こさせるものとして手厳しく批判する。同時に、彼は大要次のようにも言う。

「いかなる革命にも過ちはつきものだ。今までのキューバ革命がそうであったように、過ちに気づいたらただちに訂正し、今回の措置が一時的なものに終わることを希望する。

私が『カサ・デ・ラス・アメリカス』誌編集委員を辞任したことを、帝国主義的・反動的観点からキューバ革命を攻撃するために利用する者がいるが、社会主義こそが、真の社会的正義・言論表現の自由・創造の自由をもたらすものであるという私の信念に変わりはない。

あらゆる過ちにもかかわらず、革命キューバはいまなお、ラテンアメリカでもっとも公正な社会であることに疑いはない」。


 これが、一九七一年六月段階でバルガス=リョサが踏みとどまっていた立場である。それ以降、彼がいかなる思想的・実践的な「転向」を遂げようとも、キューバ革命の方向性とカストロ路線に関わって彼がこうして批判的に提起していた問題は、現在の観点から見ても、間違ってはいない。

先に触れたヨーロッパ知識人を主としたキューバ政府批判声明に対して、カストロは「ろくでなしの外国のインテリどもの騒ぎ」だと酷評する。一国の政治の最前線に立つ政治家と、国内にせよ外国にせよ一文学者の、それぞれの立ち位置から生まれる立論の違いはあり得よう。

だが、この段階では、リョサの発言が相互の批判的討論が可能な範囲に留まっているのに比べて、カストロのそれは討論自体を拒絶する姿勢を示してしまっている。もちろん、たかが(傍点)一文学者の発言よりは、カリスマ的政治家の発言が「権力」として機能する。

K・S・カロルの場合で見たように、ここでも問題は、ソ連型スターリン主義の力がキューバ内にひたひたと浸透している事態をめぐって生起している。

しかも、カロルが観察していた時代と違って、部分的にせよソ連路線に疑いの視線を持っていたチェ・ゲバラは、もはやこの世にはいない。ソ連圏への包摂を嫌ってラテンアメリカ規模の大陸革命をめざした路線も、ゲバラの死を大きな契機に挫折した。

カストロは、政治的にも経済的にも、まるごとソ連に身をゆだねるしかない、と覚悟を決めたのだろうか?


 私たちは、次の段階での「反カストロ」言論のありようを見極めることで、さらに問題の本質に迫らなければならない。



三、エベルト・パディージャとホルヘ・エドワード
 エベルト・パディージャについては、すでに簡単に触れた。一九三二年生まれのこのキューバの詩人については、主として、自らが記した “La Mala Memoria”, Plaza & Janes Editores,S.A., Barcelona, 1989.(『不快なる記憶』)に基づいて、記述を進めよう。

関連して、チリの作家にして外交官である、一九三一年生まれのホルヘ・エドワードも登場するが、その際には、彼自身の著作である “Persona non grata”, Tusquets Editores, S.A., Barcelona, 1991.(『好ましからざる人物』)を主要には参照することにしよう。

 一九三二年、キューバのピナル・デル・リオに生まれたエベルト・パディージャは、独裁者バチスタが逃亡し、革命が成ったときには米国に暮らしていた。キューバに打ち立てられるであろう新しい体制に輝かしい未来を夢見た彼は、いち早く故国へ戻った若者のひとりであった。


 一九五八年末友人からの電話で「バチスタ逃亡」のニュースを知り、祖国で何か重大なことが起こっていることに気づくことから始まる自伝は、フィデル・カストロの直接の裁可を得て一九八〇年にキューバを出国できるまでの二〇年間の過程を、豊富なエピソードの連鎖で描いている。

パディージャがカストロ、チェ・ゲバラ、ガルシア=マルケス、フリオ・コルタサルなどと交わした会話は、本書にだけ記されているのだから、その意味で興味深い点は諸々ある。

学生時代から知り合う機会のあったカストロの、いくつかの時期のエピソードを引きながら、ムッソリーニ、ヒトラー、ナポレオン、ロベスピエールなどに惹かれていたカストロが、常に指導者然として(あるときは「将軍然として」)振る舞う様子に触れ、若くして「独裁者」の風を身につけていたことを描き出すところも、うがった見方である。

だが、本稿の関心からすれば、革命の勝利に熱狂して帰国した文学青年=パディージャの心が、歳月を経るにつれて(その歳月とは、パディージャからすれば、カストロの個人独裁的な傾向がキューバ社会を浸していく過程と重なり合うのだが)、次第に「革命」から遠のいていく時期の、核心的な問題のありかに迫ることこそが大切だろう。


 モスクワやプラハなどヨーロッパでの任務を終えて数年後に戻ったハバナを、パディージャは次のように表現する。「一九六七年にハバナに戻って見たものは、諦めと恐怖に支配されているということだった」。

資本主義国への留学のための奨学金はすべて撤廃された。それには、スペインへ留学していたキューバ人学生が、米国のスパイに篭絡されてカストロ暗殺を企てたという事件の影響もある。

いずれにせよ、いかなる革命組織においても、「疑心暗鬼」の心が互いを支配していることを、彼は感じたのだ。パディージャが属していた作家協会も例外ではない。そこは、国家保安局の監視下におかれていた。


 危機感を覚えたパディージャは、一九七一年ひとつの作品を書いた。「私の庭で、英雄たちは草を食む」。

この作品を読む条件を私は持たないが、パディージャによれば、「告発でもなければ、申し立て書でもない。信憑性を願う証言でもない。どこかで、まるで影のように、何らかの対立があり、何らかの存在のあること」を描いたものにすぎない。

国家保全局はこの作品を嗅ぎつけ、カストロに注進する。ホルヘ・エドワードが橋渡しになって、パディージャの作品をスペインの有名出版社から刊行し、政治スキャンダルを巻き起こそうとしている、と。


 ホルヘ・エドワードは、一九三一年チリ生まれの作家で外交官である。チリに誕生したばかりのサルバドール・アジェンデ社会主義政権によってキューバ駐在大使に任命され、一九七〇年一二月に赴任する。キューバ事情を熟知した、グアテマラの或る作家は彼に囁く。

「作家は、いま、体制からの批判の標的だからね、君の任命は、ちょっと時宜にかないすぎてるね」。旧知のパディージャからも助言を受ける。「何もしゃべるな。誰も信頼するな。僕だって信じちゃいけない。どんなときだって、情報が漏れるよ」。


 革命直後に設置された文化施設「カサ・デ・ラス・アメリカス」のことにはすでに触れたが、ここを介して、毎年ラテンアメリカ規模の文学コンクールが開催されていた。

各国から作家が審査員として招かれるが、ホルへ・エドワードも短編部門の審査を担当することになり、一九六八年にはじめてキューバを訪れている。このとき、彼は、ふたつの「微妙な」作品の審査に当たっている。

ひとつは、UMAP(生産援助民兵部隊)に関するものだった。

これは、同性愛者や麻薬中毒者、その他の「社会の汚点」と指導部が考えていた存在を強制的に収容する施設の呼称である。

作品の質がよくはなかったので受賞には至らなかったが、外国から招かれた審査員自身がこの作品を前にどこか居心地の悪さを感じたらしい雰囲気を、ホルヘは描いている。

いまひとつは、受賞した作品の作家が、ホセ・ノルベルト=フエンテスであったことに関わる事情である。

彼は数年前に亡命に成功してキューバを出国していたが、その代表作『キューバの優しき戦士たち』は、キューバ文化当局から大きな不興をかっていた作品である。

したがって、そのような作家の作品をあえて受賞作として選んだ外国人審査員は、治安当局にとって大事な監視対象だったのである。


 こうして、当事者たちの叙述に基づいて、この当時の事情を知ると、事態は完全に「文学表現」の次元を離れて「治安」の問題となっていることが分かる。

文化省の仕事に大きな影響力を与えているのが、どんな機関でありいかなる人物なのかという問題がここで生まれる。

それは、軍であろう。革命軍機関誌『ベルデ・オリーボ』が、この時期、「反革命的作品」を告発・非難する場と化していたことを想起するならば、治安当局は、革命を成就した「軍」の威光を背景にして社会を統制することに、ほぼ成功していたと判断することができる。

これは、スターリン主義による社会制圧がほぼ実現した一九三〇年代のソ連を思い起こさせる事態であるが、このとき、カロルが警鐘を鳴らしていた「スターリンの国に対する無条件の服従という伝統」に慣れきった「悪しき前衛主義」の党員たちが果した役割も大きかったことは言うまでもない。


 パディージャによれば、ホルヘ・エドワードは問題とされたパディージャの作品を「一行たりとも読んではいない」が、治安当局の捉え方によれば資本主義国=スペインの出版社にその作品を仲介したり、悪質な作品を受賞させたりした「前科」がたたって、赴任後三ヵ月半で「好ましからざる人物」として国外追放となった。

この経過をホルヘ・エドワードは前記の作品で克明に記していて興味深いが、ここではこれ以上立ち入らず、この事態を知ったバルガス=リョサの反応を見ておこう。バルガス=リョサは、ホルヘが描く「自由が失われたキューバの現状」を怒りをこめて弾劾する。だが、「自由を享受する社会主義」の実現を妨げてきたのは、革命後のキューバを包囲してきた帝国主義の野蛮な経済封鎖と強いられた低開発性であるという主張を放棄していない。

「意見の相違がなくなり内部批判が消えてしまうという事態は、大多数の人びとにとっては資本主義が保証できるものよりはるかに平等でまずまずの社会的秩序を基本的に確立する改革を持続させることと両立することなのだ。

だから、警察とドグマが支配する社会には本能的な恐怖を抱きつつ、あれかこれか、唯一真なる体制を選べと問われれば、私は歯噛みしつつ言い続けるのだ。『社会主義と共にある』と。だが、私のなかで、社会主義という言葉が長年にわたって結びついていた幻想も、喜びも、楽観主義も、もはやないのだ。それは、もっぱらキューバのお陰というものだ」。


 バルガス=リョサはここで、ひとは属している立場によって、「社会主義」から受け取るものが違う、ということを語っている。言論・表現の自由がもっとも大事な知識人と、社会的秩序が平等を原則に打ち立てられていることが大事な大衆、という図式である。

言葉を換えると、表現の自由を保証しつつ、経済的な平等主義を貫くことは両立できない、ということである。敵の包囲の下で後者を実現するためには、前者は犠牲にさらされざるを得ない、ということであろう。

私自身はこの立論を固定化することには疑問を持つ。だが、バルガス=リョサの主張は、この限りでは、フィデル・カストロが一貫して言っていることと、さして違いはない。


 一九八〇年、出国が当局に認められたエベルト・パディージャは、突然フィデル・カストロの秘書から呼び出しを受けて、カストロを訪ねる。パディージャの自伝『不快なる記憶』はこのときのふたりの会話を記して、終わる。すべてが興味深いが、ここで関連することだけを引こう。

カストロは言う。「国じゅうで行なわれている労働の直接的な経験を、君にも積んで欲しかったという気持ちはあるさ。

悪く思うなよ、一般的にいって、知識人は革命の社会的事業には関心がないんだよ。何かっていえば、自由だ! どんな自由のことなのか、さっぱり分からん。そして、革命に敵対しておしまいになる。いつだって、そうさ。まるで専門家のように、われわれが抱える諸問題についておしゃべりをして、時間が過ぎていくんだよ」


 私の考えでは、この発言を見るかぎり、カストロとバルガス=リョサとの間でも、カストロとエベルト・パディージャの間でも、対話の可能性は絶たれてはいない。「治安」と「監視」という観点からしか社会を見つめない国家治安局やその後ろ盾としての軍が、文化表現の場にまで露出してこなければ、この時期キューバが抱え込んだ問題は、もっと柔軟な解決の方法があり得たように思える。

文学・芸術が、ひとの心に拡がりと深みを与えてくれる可能性をもちつつ、にもかかわらず実人生においては無用なものでしかないという本質を理解している者がそこにいて、一定の役割を果したならば、事態はどう変わっただろうか、と夢想する。

「反革命」的な作品の影に怯えるのは、ひとを上から統制しようとする官僚の発想である。ホルヘ・エドワードの言葉に倣えば、「革命というものは、当たり前のことだが、反革命よりも常に善意に解釈される」。

だからこそ、「反革命」の表現は、「革命」にまつわる善意の解釈に浸された者にとっては禁断の味がして、決して不快なものではなく、むしろ「革命」をいっそう豊かにするための素材を提供してくれていると考えるべきものである。

    ? 

 それにしても、思う。キューバは、面積一一万平方キロ(北海道と九州を合わせたよりも少し小さい)ほどの小さな島国だ。人口も一一〇〇万人程度である。

いかにも小さい。この小さな国の一挙手一投足に世界中の人びとが息をのんで注視する時期があった。

五世紀有余前のことヨーロッパ人の「征服」によっていったんは「死の島」と化したこの島で、積年の新旧植民地主義支配を断ち切るためのたたかいのめざましさと、社会主義の新しい形を創造するその果敢な試みが、世界中の人びとを惹きつけたのだ。

K・S・カロルの言葉に倣えば、キューバは「世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

もしかしたら、小さな島が一身に担うには重過ぎる任務をキューバ民衆は担い続け、世界の他の地域に生きる私たちは彼らにそれを託し続けたのかもしれない。


 だからこそ、逆に言えば、「反カストロ」「反キューバ革命」の文書も、数え切れないほど多く書かれてきたのであろう。

現在なら、ネット上において、それこそ無数の同じようなキャンペーンを見ることができるのだろう。

そのなかには、数は少なくとも、キューバ革命にとって、そしてその試行錯誤に熱い関心を抱く私たちにとって、見過ごすことのできない質の言論があることを、この稿では強調したかった。

「褒め殺し」の無責任な言動よりも、厳しい批判的・批評的なことばのなかでこそ、ひとは鍛えられるというのは、本稿を描き終えての、私の変わることのない結論である。


付記――「マリオ・バルガス=リョサ」に関わる部分の記述は、以前に私が書いた「憂愁のバルガス=リョサ」(初出『ユリイカ』一九九〇年 月号、青土社。その後、太田昌国『鏡のなかの帝国』、現代企画室、一九九一年に所収)に深く依拠していることをお断りしておきたい。

 
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