塚本さんが生まれたのは、1935年。国民学校の4年生で敗戦を迎えた。
「8月15日、みんな泣いておられたけど、私はうれしかった。なんかしらんけど、いっぺんに明るくなった。自由が日本国土全部にしみこんでいく感じだった」
自由、平等を掲げる戦後の民主主義教育を少女は体全体で受け止めた。中学校は始業時間と終業時間が決まっているだけで、他には何も規則はない。貧しい時代で制服もなかった。高校時代はサルトルやカミュ、ボーヴォワールなどの実存主義や、ナチスに対するレジスタンス文学を読みふけり、友と語り合う。弁護士の中島通子さんは幼なじみで高校の同級生。ひとりの人間として職業をもち自立して生きていくことは、塚本さんにとっても、周りの女子高校生にとっても当たり前のことだった。
けれども、塚本さんが生まれ育ったのは、祖父が強い権力をもち、家父長制が貫かれていた家庭だった。塚本さんの父親は長男だったが、彼女の生後2カ月で亡くなり、塚本さんの姉も早世し、塚本家のただ一人の直系である協子さんは、祖父からは「あんま」(跡取り)と呼ばれ、家を継ぐという重荷が課せられていた。
高校卒業を控えたある日、母親が改まった様子で協子さんを呼んだ。「あなたには許婚(いいなずけ)がいる。卒業したらすぐに結婚しなさい」と言うのだ。「こんな自由な時代に許婚なんてとんでもない。私は大学に行きたい」と塚本さんは反発。母親を説き伏せ、大学に進んで歴史を学んだ。幼いころから「家」の重さを感じていたことから、日本における家父長制の成立を卒論のテーマにした。
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