(c)宇井眞紀子
〈あることをなかったことにする国の民として生きるのはもういやだ〉
福島県浪江町出身の歌人・三原由起子さんは、10代の日々から原発事故後の社会までを短歌で詠んでいる。 素顔の三原さんは表情豊かで、ポンポン言葉が飛び出す。気が強い、というのが自己評価だ。
東日本大震災の時は勤務していた東京・原宿の会社にいた。同僚が携帯端末で見る地震情報では、浪江周辺が震度6強で真っ赤だったことにおののいた。以前、震度5で原発の放射能漏れが起きたことを記憶していたので、すぐに福島の原発が危ない!と思った。そして、ふるさと浪江には避難指示が出された。
原発や社会への問題意識はずっと持っていた。「学校で原爆の悲惨さを伝える『はだしのゲン』のビデオを観ていたし、原発作業員の労働環境も先生から聞いていました。だから、誰かに被曝を強いる原発や原発労働はおかしいと思っていました」 現在の浪江町は一部を除き、行政から帰還が促されていて、開発も進む。移住者も増えている。しかし元の住民は5%ほどしか戻っていない。「原発事故が収束していないので放射能が心配だと口にすれば、それは“風評加害”と言われてしまいます」
「商店街で曾祖父母の代から続いていたおもちゃ屋と自転車屋の建物は解体されました。私たちが通った浪江の小中学校の解体を延期してほしいという願いも叶わなかった。人々の中に『復興』のあり方をめぐって分断が生まれてしまって悲しい。戻れない人もいるのに。『復興』に乗り切れない人は置き去りにされてしまいます。これから浪江の駅前が企業や町による大規模な開発プロジェクトで様変わりしてしまいます」
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