(c)栗原順子
「親に甘えたかった。戦争は私から全てを奪いました」 今年3月、空襲被害者への救済法を求める集会で、「全国空襲被害者連絡協議会」(以下、空襲連)共同代表の吉田由美子さんは自身の体験を語り、救済法の成立を訴えた。 1945年3月10日の東京大空襲。前日夜、本所(現・墨田区)で疎開の準備をしていた両親が、3歳の吉田さんを近くの母親の実家に預けた。生後3カ月の妹を連れて火の海を逃げていたという両親。家族との永遠の別れ。吉田さんは孤児となった。3人の遺骨は見つかっていない。
6歳の時、新潟の伯母(父の姉)の家に引き取られた。伯母から「お前も親と一緒に死ねばよかった」と言われた。病気で下着を汚したら、雪が積もる庭に引きずりだされ、冷たい水をかけられた。家を出るまで虐待は続いた。 戦争孤児の多くは、引き取られた先で差別や虐待を受けた。トラックに集められて山の中に捨てられ、凍死・餓死した孤児たちもいた。
「今思えば、戦争で皆他人を育てるほどの余裕がなかったのでしょう。孤児に補償が出ていれば虐待は少し減ったかもしれませんね。私の場合は学校が救いの場でした」 小学3年生の時、色のない絵を描き、無表情な顔を心配した教員が家庭訪問に来てくれた。翌日、腫れた顔を見た教員が、ぶたれたことを察し、放課後は学校に残って本を読むことを勧めてくれた。
「この時の先生の『お父さんもお母さんも亡くしてつらいでしょうが、乗り越えていこうね、きっと報われる日がくるよ』の言葉は、心の中に生き続けているんですよ」 中学生の時、伯母が勝手に進路調査の就職欄に丸をつけたら、校長と担任が家に来て進学を勧めた。伯父から「恥をかかせたな」と殴られた。
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