WOMEN'S DEMOCRATIC JOURNAL femin

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インタビュー

死刑囚の養母として闘う

益永 スミコさん

  • 2010.09.15
  • 聞き手:室田元美
  • 撮 影:落合由利子

益永 スミコさん

「忘れたらいかん。殺したんやで」

 「ご通行中のみなさま、どうか私の話を聞いてください」「憲法9条を守りましょう。戦争で人を殺してはいけません」
 反戦のメッセージを、86歳の今、駅前でたったひとり発し続ける女性。小柄な体のどこから?と思うほど、言葉は力強い。が、ひとたび微笑むと、どんな人も心を許してしまいそうになる。ドキュメンタリー映画『死んどるヒマはない』(ビデオプレス制作)の主人公にもなった、益永スミコさんである。
 生まれは大分。貧しい農家育ちで手に職を持つことが求められ、助産婦になった。戦争中は灯火管制のかすかな光で、子どもを取り上げたこともある。
 「『今日、夫が出征するんです』という妊婦さんが、運ばれてきたこともありました。夫のほうは『お国のために頑張ってください』『武運長久を祈ります』と、万歳万歳で近所の人に見送られてね。そんな時代でした。私もそうやって兵士を見送ったことがあります」
 多くの女性たちと同じように銃後を支えた益永さんだった。

 1971年、夫の仕事で移り住んだ愛知県の病院で労働運動に目覚めた。職場で率先してベトナム戦争孤児支援の募金を始めた時、産婦人科部長に呼ばれて「組織のないものがやってはならん」。当時、病院が人手不足を口実に、看護を簡略化する「間引き看護」を行っているのも耐えがたかった。「侵略=差別と闘うアジア婦人会議」に参加した時「組織って何でしょう」と尋ねたら、労働組合の作り方を教えてくれた。
 「病院に知れて妨害されると困るから、信頼できる女性ばかりを67人集めてね。ある日、患者さんの待合室で『今から組合を結成します!』と宣言したの。大きな輪の中で、小さい私のためにみんなが用意してくれた台の上にあがってね」
 労組の仲間たちとともに、人としてどう生きるべきかを学んだ。戦争中、日本がアジアにどんなひどいことをしてきたかを知って、愕然とした。それが反戦運動のスタートになった。娘二人を育てながら、様々な活動の先頭に立った。
 憲法9条が危ない。心の底から危機感を持ったのは、安倍政権のころ。改憲がかまびすしく叫ばれ、「くそっと思った!」。一人で駅前に立つようになる。
 「池袋の駅前で演説した時に、警視庁に行って許可を得よ、と言われたんです。警視庁でも私、いつものように演説を始めました。そしたら係員が『あなたに許可は出しません』。必要ないと言う。『あなたは、語り部ですから』って」
 共感する人がどこにでもいる。かんかん照りの駅前で、黙ってペットボトルのお茶を手渡してくれる人もいるそうだ。

続きは本誌で...


ますなが すみこ

1923年、大分県生まれ。助産婦として働き、71年、刈谷豊田総合病院で自ら労働組合を結成。反戦平和、労働運動に力を注ぎ、死刑制度や裁判員制度反対を唱える。74年に起こった連続企業爆破事件の死刑囚を養子に迎えている。

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