「私は自分が大好き」と大らかに語る浩子さんだが、30代でそう言えるようになるまでには、波瀾万丈の日々があった。
2歳で脳性まひになり、当時の「就学猶予」という制度によって小学校に行けなかった。
父親は浩子さんが物心つく前に戦死。最愛の母も浩子さんが13歳の時亡くなった。母親の死後に日記を見つけた浩子さんは驚愕した。
そこには、敗戦間際の1945年3月、障がい者は足手まといと青酸カリを渡された母が、7歳の浩子さんをおぶって山の中に隠れ、何カ月もそこで暮らしたことが記されていた。
「私をいのちがけで守ってくれた母への限りない尊敬の気持ちと同時に、平和でなければ障がい者は生きられないということを強く胸に刻みました」
16歳の時、親族からの性的虐待などで「浩子は母さんのところへ行く!」と農薬を飲んだが、気づくと病院にいた。
それから、「死んではつまらぬ。生きられるだけ生きてやろう」と、生への執着が生まれたという。
親族の家を転々としたのち施設に入ったが、すぐにその暮らしに耐えきれなくなった浩子さん。人づてに知り合った、同じ脳性まひで、障がい者の世話をしている高垣昕二さんの所へと、3000円を懐に、大分県の別府駅から千葉県勝浦市へと1人向かった。
「手が使えないから、自分ではトイレも食事もできない。3日3晩食べずの道中でした」
高垣さん宅で、足を使って炊事、用便、服の脱ぎ着などをすることを学び、5カ月後、山口県で自立生活を始めた。
「仕事をしなければ生きていけない。編み物やタイプライターもやったけれど、これは誰でもできることでしょ。私にしかできないことをやりたいと、絵と短歌を選びました」
誰にでもその人にしかできないことがある、と語る浩子さん。「養護学校や施設は、個性を無視して、障がい者は障がい者としてしか生きられないと教える。だから嫌い」