生きていかなきゃならないもん
神奈川県川崎市のふれあい館「トラヂの会」に、毎週やってくる在日1世の金文善さんは、1926年生まれの84歳。故郷は慶尚南道の巨済島。42年、16歳の時に日本へ来た。当時、生活苦を逃れるために大勢の朝鮮人が日本を目指した。文善さんも、そのひとり。
「巨済島では、書堂(夜学)に通って、日本語のカタカナを勉強しましたよ。『カサ、カラカサ』ってね。私は6人きょうだいの長女。昼間は畑で綿花を摘んでそこから種を取り除いたり、田植えをしたり、川で洗濯もしたよ。貧しい島だったから学校へ行かない子どもはたいてい家を手伝ったの」
あるとき、仕事で日本へ行っていた従姉妹が戻ってきた。きれいな洋服に革靴。「あ~、日本にはこういうのがあるんだ、私も行きたいな」。軍用テントや軍旗の材料をつくる「東京麻糸」が朝鮮人の女性を募集に来た時、城浦の旅館で試験を受け、合格した。そのまま旅館に何日か泊まり、釜山から船で下関へ。そこから汽車で沼津の東京麻糸へたどりついた。
日本人女性も含め、一部屋に10人ぐらいの共同生活。給料も支払われ、休日には外出も許されたが、仕事は過酷だった。作業場には目の前が見えないほど、ホコリが舞う。麻布を何枚も束ねてはさみで切るうち、文善さんの人さし指と中指はくの字に折れ曲がってしまい、いまも元には戻らない。
「空襲にも遭ったよ。真夜中にいなかのほうに逃げて逃げて、本当に怖かった」(45年7月17日の沼津大空襲)。
仕事が嫌になって、友人と2回も逃げだした。1回目は捕まって連れ戻され、2回目の逃亡中に戦争が終わった。文善さんのように希望して来た人だけではなく、東京麻糸には44年に「女子挺身隊」として約300人の朝鮮人女性が連れてこられ、戦後に東京麻糸を相手に公式謝罪と賠償を求める裁判も起こしている。東京麻糸の朝鮮人女性は解放後、一斉に帰国したが、逃亡したために文善さんは日本に残されてしまったのだ。
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