スクリプターは圧倒的に女性が多い。その仕事は、脚本の準備稿が配布された時から始まる。台本を分析し、原作を読んでその真意を探り、助監督と手分けして資料を集める。それらを踏まえ、監督の演出意図に沿って俳優を交え衣装や小道具を選ぶ。クランクイン前のこの作業は「短期集中型卒業論文の準備に似ている」と言う。そして、撮影現場では、位置や服装はもちろん、あらゆる事象とセリフ、撮影方法や時間、演出など「撮影現場で起こるすべて」をカットごとに記録する。撮影が終われば仕上げに立ち会い、完成台本をまとめる。
梶山さんは入社試験で演出を希望したが、「(演出を担当する)助監督の道は女性にはない」と阻まれスクリプターとして就職。「監督やキャメラマンの傍らにいてすべてが見られる最高のポジション」に夢中になった。
1988年、200日以上に及ぶ中国ロケから帰り、完成台本を書くためにひとりで集中できる場所を探して、ぶらりとこの山村に辿り着いた。2カ月後には東京から資料を運び込んだが、すぐに次の仕事でスペインへ。
「結局、ここに軸足を移すまでに20年が過ぎていた」と笑うが、その間も、スクリプターとしての仕事と、田中絹代や小林正樹監督の遺品整理という大仕事をやり続けてきた。
梶山さんが田中絹代記念館設立準備スタッフとなったのは90年。遺品を整理する中で、絹代が49年の渡米時に撮影したプライベートフィルムを発見し、編集して『田中絹代の旅立ち―占領下の日米親善芸術使節』を製作した。
田中絹代の監督としての功績に光が当たるようになったのも、梶山さんの努力が大きい。田中絹代は、坂根田鶴子(『初姿』36年)に続く日本で2人目の女性監督で6本の劇映画を撮った。99年の国際女性映画週間(現・東京国際女性映画祭)で上映された初監督作品の『恋文』(53年)は、かつての製作会社に1本だけ残っていたボロボロの16ミリプリントを梶山さんが探し出し、映画祭のプロデューサーで当時の東京国立近代美術館フィルムセンター名誉館長だった高野悦子さんの協力で復元さされたものだ。