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インタビュー

映画人の顕彰と私設図書館

梶山 弘子さん

  • 2010.03.15
  • 聞き手:鈴木京子
  • 撮 影:苅部節子

梶山 弘子さん

映画屋が後輩のために残せること

 栃木県那須地方の山村に「弘子文庫」を訪ねた。  弘子文庫は、スクリプター(撮影記録係)の梶山弘子さんが、映画の台本をはじめ、映画製作にあたって集めた膨大な資料を収めている私設の映画図書館だ。事務室などと表示のある小部屋には、書籍やビデオテープ、写真などが「HISTORY&WAR(歴史と戦争)」「CINEMA(映画)」と分類され、ぎっしりと詰め込まれていた。たぶん待合室だろうと思われる広めの部屋で「どれでも好きなのに座って」と勧められたのはディレクターズ・チェア。映画監督が撮影現場で座るいすだ。ここはかつて町立の診療所だった。
 「仕事のために集めた資料は増えるばかりだったが、捨てたり売ったりする気はなかった。ここを見た瞬間、まず、それらを広げて整理し、勉強する場にできると思った。それに、映画屋が後輩のために残せること、映画界への恩返しも考えた」

 スクリプターは圧倒的に女性が多い。その仕事は、脚本の準備稿が配布された時から始まる。台本を分析し、原作を読んでその真意を探り、助監督と手分けして資料を集める。それらを踏まえ、監督の演出意図に沿って俳優を交え衣装や小道具を選ぶ。クランクイン前のこの作業は「短期集中型卒業論文の準備に似ている」と言う。そして、撮影現場では、位置や服装はもちろん、あらゆる事象とセリフ、撮影方法や時間、演出など「撮影現場で起こるすべて」をカットごとに記録する。撮影が終われば仕上げに立ち会い、完成台本をまとめる。
 梶山さんは入社試験で演出を希望したが、「(演出を担当する)助監督の道は女性にはない」と阻まれスクリプターとして就職。「監督やキャメラマンの傍らにいてすべてが見られる最高のポジション」に夢中になった。
 1988年、200日以上に及ぶ中国ロケから帰り、完成台本を書くためにひとりで集中できる場所を探して、ぶらりとこの山村に辿り着いた。2カ月後には東京から資料を運び込んだが、すぐに次の仕事でスペインへ。
 「結局、ここに軸足を移すまでに20年が過ぎていた」と笑うが、その間も、スクリプターとしての仕事と、田中絹代や小林正樹監督の遺品整理という大仕事をやり続けてきた。

 梶山さんが田中絹代記念館設立準備スタッフとなったのは90年。遺品を整理する中で、絹代が49年の渡米時に撮影したプライベートフィルムを発見し、編集して『田中絹代の旅立ち―占領下の日米親善芸術使節』を製作した。
 田中絹代の監督としての功績に光が当たるようになったのも、梶山さんの努力が大きい。田中絹代は、坂根田鶴子(『初姿』36年)に続く日本で2人目の女性監督で6本の劇映画を撮った。99年の国際女性映画週間(現・東京国際女性映画祭)で上映された初監督作品の『恋文』(53年)は、かつての製作会社に1本だけ残っていたボロボロの16ミリプリントを梶山さんが探し出し、映画祭のプロデューサーで当時の東京国立近代美術館フィルムセンター名誉館長だった高野悦子さんの協力で復元さされたものだ。

続きは本誌で...

かじやま こうこ

1936年、長崎県生まれ。宝塚映画から東宝へ移籍し、81年よりフリー。同業者の結束が必要と92年のスクリプター協会設立に尽力。田中絹代、小林正樹を顕彰するために仲間と立ち上げた「芸游会」代表。山口県下関市の田中絹代記念館顧問。
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