(c)落合由利子
米軍占領期、沖縄では現地に戸籍がない人は「非琉球人」とされていた。金美恵さんは、そのような朝鮮人の歴史を研究している。日本軍「慰安婦」が広く知られる前の1975年に名乗り出た裴奉奇さんもその一人だった。
99年、東アジアの冷戦をテーマにしたシンポジウムが沖縄で開かれ、学生だった金さんは日本語通訳者として韓国の研究者らと裴さんがいた渡嘉敷島を訪ねた。研究者らは、91年に韓国で「慰安婦」だと告白した金学順さんの前に裴さんが公表したことをそこで初めて知った。 「裴奉奇さんを支援していたのが朝鮮総連の方だったので、冷戦下の南北対立が影響して知られていなかったんです。私は朝鮮大学校(朝鮮総連が設立)の学生の頃彼女のことを『朝鮮新報』で読んでいた記憶があり、植民地支配の問題に南北対立が絡むねじれを目の当たりにして衝撃を受けました」
その翌年に韓国・光州で行われる民主化運動20周年の国際シンポジウムにも参加。 「政治活動をしないという念書を書けと韓国領事館に強要された上に、申請者本人である私のことよりも夫が何をしているかということばかり訊かれてプライドが傷つきました。韓国の現代史や統一運動に関心があるのは私のほうなのに!って(笑)」 光州では、林秀卿さんが前夜祭の司会を務めることになり、その舞台に金さんを立たせようとの動きがあった。林さんは1989年、果敢な学生運動によって平壌に渡り、平壌を感動の渦に巻き込んだ人物。
「前夜祭主催側の筋書きでした。私は朝鮮籍を代表して来たのではなく、学生として来ただけだと拒んだのですが、あとで台本がもれて…、政治活動をしたとされて“ブラックリスト”に載ってしまったようです」
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