(c)落合由利子
戦後79年。戦争の時代を生きた人たちが少なくなった。 「これからは、『もの』に語ってもらうことになります。戦争の何をどう伝えればいいのか、ますます難しくなりますね」 と話すのは、30年にわたって戦争の実相に迫ろうと調査・研究を続ける亀岡敦子さんだ。
徳島県に生まれ、3人の子どもたちを育て、夫の仕事で神奈川県横浜市に転居。近くにあった慶應義塾大学日吉キャンパスが戦時中、海軍に接収され、連合艦隊司令部が地下壕から戦争を指揮していたことを知った。 「善なる学びの場である大学に戦争が来るとは、何事か」 放置されていた貴重な戦跡を、せめて次世代に残さねば。地域住民として「日吉台地下壕保存の会」発足(1989年)後、会の運営に力を入れてきた。現在も日吉台地下壕は月2回の定例見学会で一般開放されている。
「私にとっても戦争は身近でした。戦後すぐに生まれ、引き揚げてきた親戚がわが家に一時逗留していたり、傷痍軍人を大勢見かけたりしました」 日吉台地下壕での活動をきっかけに、慶應義塾大学文学部の通信教育課程に入学。「女性と戦争」をテーマに、羽仁もと子、市川房枝等を研究した。 「子どものPTAでせっせと活動していた自分は、あの時代にいたら国防婦人会で張り切っていたはず。私自身の戦争でもあったんです」
1994年夏。白井厚教授が開催した「特攻50周年展示会」で、同大学から学徒出陣した特攻隊員、上原良司さんの遺書や写真と対面し、強く惹かれたのを機に、研究者とともに長野県・安曇野にある上原家を訪れるようになった。「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」という「所感」の一文で知られる良司さん。3通の「遺書」と「所感」を遺し、45年5月11日、沖縄の海で戦死した。
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