(c)栗原順子
栃木県の足尾銅山が閉山して半世紀。作家の三浦佐久子さんは、ラジオや新聞の取材を受け、講演を94歳で元気に行っている。足尾銅山の歴史や銅山町の文化を40年以上掘り起こしてきた三浦さんの元には、話を聞きたいと来客が絶えない。自然豊かな那須の高齢者施設で執筆を続ける三浦さんを訪ねた。
「幼い頃はコンプレックスの塊。体が弱くて病気ばかり。学校まで歩けないと、家が運送屋だったから、赤いマントを着せられ、荷札を付け荷物と一緒にリヤカーに乗せられて、番頭が小学校まで送った。男の子たちは待ち構えて私をいじめた」 女学校に入学して間もなく結核を患い、1年間休学。戦争が激しくなると農作業や学校の工場で飛行機の部品作りに奉仕。この頃に詩を書き始め、新聞に投稿し入賞した。父親が戦地に行き、母親が運送業を仕切り、家業の手伝いにも励んだ。
「母親は厳しい人だった。女の幸福は結婚が一番と言うが、私の縁談があるたびに、結核を患ったやせっぽちでは子どもが産めないと断られた。私は結婚なんかするもんかと思っていたが、21歳の時、これを逃したらないと母が強引に決めた。しかたなく結婚したけど、すぐに家に逃げ戻って来ちゃった」 「虫も殺さぬ顔をして、やることが大胆だ」と隣近所からうるさく言われた。農民詩人の伯父が結婚だけが幸せではない、文学の勉強をするなら東京へ行くことを勧めてくれ、家を出た。
短大で学び、その大学に就職。1966年、大学の文系学部にもコンピュータが導入されることになり、付属研究所の管理責任者に抜擢された。当時、私立大学の文系のコンピュータ導入は珍しかった。「未知の世界を男たちは嫌い、女の私が選ばれて、白羽の矢だの左遷だの噂がたったけど、私は開拓精神も旺盛で、未知の世界に挑戦することを承諾したのです」
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