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福島原発事故後、子どもたちが被ばくしない環境で教育を受ける権利を求め、無用な被ばくをさせた責任を問う「子ども脱被ばく裁判」(2024年2月15日号ほか参照)の共同代表になった水戸喜世子さんの長年の活動に対し、23年12月に「多田謡子反権力人権賞」が贈られた。 受賞発表会の日、「受賞のことを娘に伝えたら、『ノーベル平和賞よりすごいね』って言われたんです」と、水戸さんは顔をほころばせた。
水戸さんの原点は10歳の時、戦争中の焼け跡だ。名古屋の空襲で家は焼けたが家族はみな無事だった。焼け跡で親を亡くした子どもたちを見て、衝撃で動けなくなった。この記憶はずっと残り、「子どもが苦労する姿を見るのはいつもつらい」と語る。これを、〈誰もが幸福に生きる権利がある〉と、論理的に整理してくれたのが憲法だった。 大学で物理学を学んでいるときに、同じ専門で学生運動をしていた水戸巌さんと出会う。60年に結婚。61年に娘が、翌年双子の息子が生まれた。 60年代は学生運動や反戦運動が活発で、政府による弾圧も激しかった。弾圧で負傷した人々の救援や警察への差し入れに奔走。この活動から、69年に「救援連絡センター」が発足する。
「親が活動で不在の時は知人の女子学生がシッターに来てくれて。いろんな人が関わったおかげで子どもたちはしたたかに成長しました。家族は同志です」 そんな家族が一変した。夫は専門の原子核物理学で東海第2原発の設置反対運動を理論的に支えるなど、反原発運動に深く関わっていた。その夫と2人の息子が86年の年末、登山中の北アルプス・剱岳で行方不明に。遺体は翌年発見された。残された水戸さんは死を受け入れられず、泣くこともできなかった。
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