(c)落合由利子
戦前から女性解放運動を展開した山川菊栄。山田(樋浦)敬子さんは、その思想と活動を伝え、菊栄研究を発展させるために活動する「山川菊栄記念会」(以下、記念会)で今、事務局長を務める。菊栄らと「婦人問題懇話会」(以下、懇話会)を立ち上げた菅谷直子さんとの出会いがきっかけだ。女性史への関心から1975年に井上輝子さんの誘いで懇話会に入り、その後、菊栄の死去を経て記念会が発足。「山川菊栄記念婦人問題研究奨励金」(山川菊栄賞)贈呈が始まり、第1回で山田さんら4人の山川菊栄の共同研究が受賞した。
「私たちのものは卒論レベルでしたが、2回から34回までは錚々たる方たちです。性暴力、マタハラ、『慰安婦』、パリテなど、今思うと山川菊栄賞は日本のフェミニズム研究の発展に寄与してきたのかなと。私は事務局として選考や周年行事の裏方でした」
「高校2・3年の担任が、歴史や歴史教育の研究者で教科書裁判にも関わっていた黒羽清隆さんで、歴史の面白さや歴史に庶民や女性の視点を入れることの大切さを教えてもらいました。大学・大学院では日本近現代史を専攻して、79年、神奈川の県立高校に社会科教員として就職しました」
高校生と一緒に過ごす時間が楽しくて、たちまち教職に魅了された。でもすぐに「両親にも夫にも環境にも恵まれていた」と気づかされる現実に突きあたる。 「3年間担任して卒業させる目標があったのですが、職場では『いずれ出産するから担任は持たせられない』『子を持つ教師でないと生徒指導はできない』といったことを言われて…。33歳のときに妊娠を望んだものの恵まれず、37歳で授かることができたのですが、望んで頑張れば道は開けるはずだという思い込みの拙さに気づかされましたね。ハンデのある人や女性が受ける抑圧についても考えるようになって、生徒にも、『頑張れば道は開ける』と安易には決して言えなくなった。努力だけで切り開いていくことの過酷さが、身に染みたんですよね」
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