(c)落合由利子
フランス語の通訳者・翻訳者・ビジネスコーディネーターとして活動する竹上沙希子さんは、日本とフランスを行き来しながら、人生の半分以上もの歳月をフランスで過ごしてきた。竹上さんはよく「日本語の私とフランス語の私、ふたりの私がいる」と言う。
父親の仕事の都合で、生後10カ月から2歳までアルジェリアで生活した。その後はほぼ5年周期で日本とフランスを行き来し、大学卒業後は35歳で帰国するまでフランスで暮らしてきた。「帰国子女」と一口に言っても、竹上さんほど両国を何度も行き来している人は珍しい。
言語や文化の違いで、初めて大きなショックを受けたのは、中学2年生で日本に帰った時。同級生に自分の日本語が通じなかった。フランス語のような、直接的な話し方をしたため、会話のリズムや言い回しが違っていたのだ。「フランスにいた時は、自分はどうせ日本に帰る日本人だという柱があったんです。でも、日本人としても無理なんだって」。日本社会になじめないと思ったことが、コンプレックスとなった。
一方、「日本人として認められたい」という気持ちも強まっていった。「私の母は健康優良児日本一に選ばれて、子ども親善大使のような形でローマ法王に会っているんです。この話をずっと聞かされていて、自分はやっぱり日本人だというのが刷り込まれていました」。大学卒業後、フランスで日本の文化関連機関に勤めたのもそのためだ。「自分で考えても痛々しいんですけど、お国のためにっていう感覚がありました」
そんな竹上さんが、自分の強みを活かした言葉を使う仕事のおもしろさを知ったのは、20代半ば、写真家の津田直さんの作品制作に通訳として参加した時だった。モロッコの取材旅行に約1カ月同行し、電気のない村でホームステイをしたり、現地のベルベル人の男性の詩を翻訳したりした。
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