(c)落合由利子
東京オリンピックパラリンピック開会前日の7月23日、その舞台となる新国立競技場の前で、小説家の温又柔さんは静かに、激しく怒りを燃やしていた。
五輪という装置そのものが持つ暴力性・差別性はもちろんだが、新型コロナの感染が再拡大し、中止の声が高まる中での開催強行。案の定、爆発的な感染拡大となり、医療につながれずに苦しみ、命を落とす人が相次いでいる。まさに「棄民」政策。いまや誰が、いつ、どのように国から「棄民」とされるかわからない。
しかし考えてみれば、これまでも政府は「棄民」を作り出し、そうすることで「棄民」とされる人への憎悪や偏見は煽られてきた。夏の特集号「『棄民』とされること」では、「日本」や「日本人」のありようを鋭く問うてきた温又柔さんにインタビューし(2、3面)、沖縄戦被害者や福島第一原発事故被害者、「戦争孤児」やブラジル日系移民など「棄民」とされた人の生き様をすくい上げ、寄り添った人たちに聞いた。
今号編集中の8月6日には、東京・小田急線にて女性を狙ったヘイトクライム、フェミサイド事件が起こった。「女性」を「人」と呼び替えるメディアが多いが、「女」という「属性」が、これまで「棄民」とされてきた結果だということを付け加える。 ●編集部
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