(c)落合由利子
戦後76年にあたる今年3月、初めての東京大空襲犠牲者「名前読み上げ追悼」が東京大空襲・戦災資料センターで行われた。家族を東京大空襲で亡くした人たち、若い世代も加わって12人ほどで410人の名前を読み上げた。
呼びかけたのは遺族のひとり、河合節子さん。昨年行われたシベリア抑留死者の名前読み上げ追悼を知り、「名前をよすがに、一人一人の人生を思ってほしい」と発起人に。亡くなった母親と2人の弟の名を読み上げた。―河合ゆみ 35歳 女性 深川区深川― 。続いて3歳だった昭義さん、一歳半の勲さんも。河合さんは淡々と読んだつもりだが、愛しい人の名を口にして「ぐっときちゃった」読み手もいたそうだ。 「みんな名前がありました。それを束にして10万人が亡くなりましたと言われても、納得できないですよね」
1945年3月10日の夜、5歳だった河合さんは預けられていた茨城県のおじの家で、東京の空が赤く輝くのを見た。7月になって河合さんを迎えに来た父は、顔を包帯でミイラのようにぐるぐる巻きにして現れた。それを見て、母と弟たちは死んでしまったのだと悟った。
「耳が溶けてなくなり、顔中ケロイドの父をみんなが振り返るんです。何か文句あるの? と言いたくて私はにらみ返して歩いたわね。大人になってからは、父の心の傷が深いことも想像できるようになりました」 燃え盛る火の中を、父は3歳の弟を抱いて走ったという。一瞬、取り落としてもう一度抱こうとしたが、もうそこにいなかった、と。後ろにいた母と1歳半の弟も姿が見えなくなった。家族を守れなかった自責の念からか、父は毎晩のようにうなされていたという。 「今となっては想像でしかない。でもね、国としてちゃんと調査をして、亡くなった人たちは戦争の被害者だと正式に認めてほしい」
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