(c)落合由利子
笠木絵津子さんの仕事は、いつも疑問から始まる。「なんか、ようわからんなあ、と思うところに突進する、変な人間なんやわ」。若き日に物理学者の道を考えたこともあり、アインシュタインや素粒子論を語り始めると止まらない。美術とは遠い世界の住人のようにも見えるが、不思議な力で二つの世界を融合させるところに彼女のアートの独創性がある。
今年の林忠彦賞に輝く作品集『私の知らない母』を開くと、亡き母・久子さんが生まれ育った「満州」や台湾の古い白黒写真と、数十年後に現地を訪ねた笠木さんのカラー写真が一つに溶け合い、その中で娘の笠木さんが、赤子である母を抱いていたり、友人のように並んでいたりする(左の写真)。ねじれる時空にくらくらしながら頁をめくるうち、見る者は笠木さんの私的な旅から壮大な歴史のうねりへと導かれていく。 作品集にあとがきを記した山室信一さん(政治学)はそれを、無数に蓄積された時間の層を喚起する「時層写真」と評している。それにしても物理学から写真、現代美術へと、どのように跳躍してきたのか。
湯川秀樹が存命中の京都大学基礎物理学研究所に笠木さんが職を得たのは、優秀な学生がこぞって物理に集まる時代だった。そうでなくても女性には狭き門。素粒子論で修士を出た笠木さんも、研究を管理運営する、いわば縁の下の力持ちだった。だからノーベル賞と聞くと今も複雑な気持ちになる。「支えてる女房は物理などを出た理系女子が多い。当時は男を食わせにゃということで、女に降りてもらった。支える人がいて初めてもらえるノーベル賞って、どうなん?」
管理運営の仕事に向いていないことに気づいた頃、、父親の趣味の世界を覗いてみようと軽い気持ちで始めたのが写真だった。「暗闇に落ちている傘」とか撮りながら、撮ったつもりの写真と出来上がりの違いに驚き、探求心に火がついた。
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