(c)落合由利子
2007年6月25日。中学の体育教師だった夫(義男さん、40歳)が、くも膜下出血で亡くなる。想像を超える過重労働の末だった。その日を境に小学校教員だった工藤さんは思いもよらない闘いの道を歩むことになる。人生が変わり、工藤さん自身も変わった。それは夫を「取り戻す」闘いとして始まり、教員の働き方を変え社会を変える活動へと広がりつつある。
二人は教員養成系大学で出会った。アメフト選手だった義男さんは何でもバリバリこなす性格で、職場でも多くの役職を任された。前任校でも学年主任と生徒指導を兼務。教育委員会が兼務しないよう指示するほどの激務だが「他に適任者がいなくて」と校長に頭を下げられてのことだった。赴任したての横浜市立あざみ野中学校でも17もの業務を割り当てられていた。
朝7時には学校に着いて部活の朝練指導。帰宅は早くて20時、夜中になることもあった。週末も出ずっぱり。そして「さすがの夫も行きたくないと口にしていた」修学旅行の引率が死の引き金になった。帰るとそのまま頭痛で床に臥せ、無理して出かけた朝練が最後の仕事に。
明らかな過労死だと、周囲に押されるように公務災害を申請した。民間の労災にあたるが、労災と異なり所属長(校長)を通してしか申請できない。加害の側になる学校の協力を得るのは容易ではない。さいわい周りの支援で申請に至ったが、時間外労働の証明が難しく、労災の一審目にあたる段階で、公務外と決定されてしまう。 「教師が好きで、そのために亡くなった夫を全否定された気がして」、決定不服の審査請求を決意する。たまたまテレビで「過労死110番」を知り、過労死弁護団全国連絡会議の川人博弁護士にもつながれた。
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