(c)落合由利子
自転車で走っていると不知火の海が見える。絵に描いたようなのどかな地、熊本県水俣市でチッソの工場排水による水俣病が起こり、公害認定されて50年になる。しかし、永野三智さん著『みな、やっとの思いで坂をのぼる』(ころから)は、水俣病が決して過去の病ではないことを突きつける。 2008年から水俣病センター相思社で患者相談をしている永野さん。相談を通じてどんなことを感じたのだろうか。
子どもの頃、すぐ近所に胎児性患者のお姉さんが住んでいた。永野さんは友だちと一緒にその人をからかった。本の前書きに記した一文は衝撃的だ。学校で教えられたのは「差別を受けても負けないように」ということ。中学生の時に県外者から出身地を聞かれ、答えると「水俣病がうつる」と避けられた。故郷がイヤで逃れたくて、中学卒業後は熊本市へ。出自を偽って暮らした。結婚、出産、離婚を経て、子どもと国内外で放浪生活を送り、ボロボロになって逃げ帰ったのが水俣だった。
書道の恩師だった溝口秋生さんが起こした、母親の水俣病認定と謝罪を求める裁判を傍聴するようになり、ありのままを語る人たちの中で自分を偽らなくていいとわかった時、解放されたと感じた。溝口さんの暮らしを支えたい、自分のコンプレックスと向き合いたい。国内外に水俣を発信した患者の浜元二徳さんが「じゃなかしゃば」(ここじゃない、もうひとつのこの世)と呼ぶ相思社の職員となった。
04年の水俣病関西訴訟の勝訴にともない、人知れず苦しむ地元の人や県外に住む水俣出身者が大勢、相談に訪れたり電話をかけてくるようになった。自分も水俣病かもしれない、と。魚を食べた母親の胎内で罹患した胎児性水俣病の人も少なくない。若い頃は平気でも40、50歳になって手足のしびれや激痛、からす曲がり(こむらがえり)の症状で苦しむ人がいる。
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