(c)宇井眞紀子
私(柏原)の生き方を方向付けた、韓国の元慰安婦たちの暮らしに寄り添ったドキュメンタリー映画『ナヌムの家』(ビョン・ヨンジュ監督、1995年)、私がリブに出会い直した『新装版 いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』(田中美津著)。いずれも、中野理惠さんが代表を務める映画配給会社「パンドラ」が配給、出版した。『ナヌムの家』の中の、ある日本語字幕に疑問を持ち連絡した時も、中野さんから丁寧に返信をもらったことを思い出す。中野さんの一つ一つの映画に込める思いの表れであると思う。 パンドラは今年創立31周年を迎え、9月、10月と東京の映画館で特集上映が行われたばかり。なぜ31周年?
「忘れてたのよ。そういうの考えたことないから」 今年10月、『すきな映画を仕事にして』(現代書館)を上梓。「仕事も映画、趣味も映画」と言う中野さんの人生、映画や監督らとの出会い、配給までの道のりや裏話が満載の、まさに“パンドラの箱”といえる本だ。
人の出入りの多いお寺で育った。「ものすごい田舎」で、楽しみは神社のお祭りや学校の映画教室で見た映画。『十戒』や『風と共に去りぬ』に胸躍らせ、今村昌平監督の『にあんちゃん』は今でも印象深い。小さい頃の夢は法律家、高校生になると新聞記者。東京の大学に進学するが、大学闘争で授業はなく、映画漬けの毎日を送った。 「当時は名画座がたくさんあったからね。大島渚監督の『日本の夜と霧』、岡本喜八監督の『肉弾』…すごくよかった」
大学卒業後、新聞社に募集がなく、大手建設会社に就職するも、女性は男性の補佐業務で給料が低いなど、すさまじい女性差別を経験する。体も壊し2年弱で辞めたが、「今度は、映画が好きだから映画の仕事をしよう」と決意。人の紹介でフランス映画社に就職、13年勤め、映画配給業務を学んだ。
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