(c)落合由利子
戦争中に何があったのかを、歌で伝えている人たちがいる。中国の南京大虐殺を歌う「紫金草合唱団」、シベリアから戦犯として撫順戦犯管理所に送られ、自分たちの罪を認めて生き直す元兵士たちを伝える「再生の大地合唱団」。「歌は好きだけど、合唱を始めたのは小学校教師を退職後」と話す両合唱団メンバーの飯田弓子さんは、戦中に中国で生まれた。なぜ加害の歴史を伝えようと思ったのか。
「私が覚えている両親は、後ろ姿だけなんです」と飯田さんは話す。中国の鞍山市で昭和鉄工所に勤めていた父が現地召集され、軍服で列車に乗って行った後ろ姿。鞍山市にもB29の爆撃があり、母は防空壕の前で赤ちゃんをおぶって避難誘導をしていた。その後ろ姿。2歳だった飯田さんは両親の笑顔も覚えていない。
「空襲で亡くなったのかな、赤ちゃんと棺に納められた母の顔は覚えているのね。死の意味もわからない年齢。神戸のおじに引き取られ、そのあと埼玉、東京でおじ・おばたちの世話になったときも、雨が降ると傘を持った友だちのお母さんが来るけれど、なんで私には母がいないのか不思議だった」
棺に寝かされていた母が死んだことを受け入れたのは、おばが亡くなった7歳のとき。だが、親戚の間を転々としながらも、飯田さんは幸福な子ども時代を過ごしたと言う。年長のいとこたちの後を追ってハロー、ハローと意味も分からず進駐軍に手を振ってもらったガムの、甘くておいしかったこと。鞠つきや木登りにも夢中になった。
「なんで親でもない人たちが私を育ててくれるんだろう、とずっと考えていた。あるときハッと気がついて『おばちゃん。子どもは社会のものなんだよ。だから大人は区別なく、どの子にも責任を持つんだと思う』。おばから『親なしっ子のくせに生意気な』と叱られてね。だれもが苦しかった戦後に、自分たちの子どもと同様に愛情を注ぐことがどれだけ大変だったか。私ものちに子どもを持って知りました」
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