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インタビュー

「非核市民宣言運動・ヨコスカ」で活動する

山鹿順子さん

  • 2018.5.25
  • 聞き手…清水さつき
  • 撮影…宇井眞紀子

山鹿順子さん

(c)宇井眞紀子

兵士は隣人。反基地行動は楽しく

 

神奈川県横須賀市には米海軍と自衛隊の基地が並ぶ。横須賀の市民運動の取材時に見た、米海軍司令部の正門前で兵士に向けて「基地のみなさん、こんにちは」と英語で語る山鹿順子さんの口調は柔らかく、友達に話しかけるようだった。  横須賀市はまさに軍都。湾にはイージス艦や、時に巨大な原子力空母が浮かぶ。ここで、「非核市民宣言運動・ヨコスカ」(以下、市民宣言)は40年以上基地反対の声をあげながら、米兵や自衛官に対話を求める活動を続けている。

生まれは今の北朝鮮。日本(横浜)に戻ったのは太平洋戦争が始まる直前だった。国民学校3年生の時に横浜でも空襲が始まり、学童集団疎開でいじめに遭う。「食べ物にも愛情にも飢えている時の子どもたちのいじめはほんとに陰湿だけど、訴えるところもない。その体験から、人に嫌われるのを恐れる内向的な性格になってしまった」  敗戦後、再開した学校で真っ先に行ったのは教科書の黒塗り。「戦争はイヤ」「おとなは嘘つき」という思いが膨らみ、「私はおとなになりたくなかった」。これが山鹿さんの原点になる。生きるのがつらく、高校時代には「拒食症」になった。  暗いトンネルに入ったような精神状態の中、自己模索の時代に入る。大学時代に精神障害をもつ子どもの施設や社会福祉活動に加わり、卒業後は国立の知的障害児の施設など、社会福祉の分野で働いた。時にさまざまな壁にぶつかっては次へ向かい、手探りで生きていた。

1960年代後半、ソーシャルワーカーの国際プログラムで渡米。スラムで実習したり、黒人の「暴動」も見た。だが、この時に人間同士の対等な関係や、一見豊かなアメリカも一面的に判断できないことを身をもって体験した。帰国後は、大学でアメリカ人学生を支援する仕事に就く。

        続きは本紙で...


やまか じゅんこ

1935年朝鮮半島・咸鏡北道生まれ。2006年の半年、新潟・妻有の「大地の芸術祭」現地ボランティアスタッフに。2008年から「非核市民宣言運動・ヨコスカ」に加わり、毎月最終日曜の月例デモや会議に参加する。6歳のネコ2匹と同居。非核市民宣言運動・ヨコスカは同名で検索。

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