原子力利用の先に「平和」はない
「想定外」が連発された福島第1原発の「事故」を痛切な思いで見守ってきた。「なんとか防ぎたいと必死でやってきましたが、現実は想像以上で日に日に深刻さが増してきて」
そう語る池島芙紀子さんは、1980年代から反原発運動に取り組み、高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の反対運動を積極的に展開してきた。
大学卒業後、中学校教師の仕事に情熱を注いだ。しかし当時の中学校は校内暴力で荒れ、幼かった2人の息子を抱えた池島さんは疲弊しきってしまう。
「共働きの核家族で、母は亡くなっていて、父や姉は遠方にいて援軍がなかった。私は胃を痛め、保育所通いの下の子もおかしくなりだして、これはもう無理だわとあきらめたんです」
断腸の思いではあったが、母を戦争で亡くしたこともあり、いずれは反戦反核の活動をしたいとも考えていた。退職してすぐに「反核ろばの会」を立ち上げ、原発問題に直面した。
「原発は事故がいつ起こるか分からないというので、次第に反原発のほうに力を入れざるを得なくなりました」。当時、反原発運動はごく限られた人たちのものだった。「しかも男性中心で、夜に集まっては難しい話をされてたんですよ。こんな大事なことをこういう形でやっていてはダメなんじゃないかと思い、自分なりに必死で勉強して、スライドを使って、出前学習を始めたんです」
そんな時、「もんじゅ」の計画を教えられた。冷却剤に扱いが難しいナトリウムを使用すること、猛毒のプルトニウムを燃料にすること、地震に弱い構造であり、わずかなトラブルで暴走しやすいなど通常の原発の何倍も危険な施設が建てられようとしている。
「敦賀のきれいな白木浜から建設中の『もんじゅ』を見た時、とっても悲しくなって。原発はすべて危険ですが、とりわけ危険な存在として『もんじゅ』を据えることにしました」
続きは本誌で...