せんのうて泣くことはなかったね
山口県上関町祝島。瀬戸内海に浮かぶ小さな島だ。港の対岸には、上関原発建設計画予定地、四代の田ノ浦がある。祝島の人々は、これまで30年間、原発に反対し続けてきた。7月初め、祝島の酒井キヨ子さんを訪ねた。
酒井さんは尋常高等科を出たあと、洋裁学校に通い、広島の軍隊の被服廠(ひふくしょう)で働いていた20歳の時に原爆が落とされる。たまたま友人と郷里・祝島へ帰っていた酒井さんは、戻って直後の広島の惨状に驚いた。被服廠で救護の仕事に当たるが薬も不足し、十分な手当もできずに人が亡くなっていった。夜になると救護所の窓から、遺体を重ねて焼いたところに青いリンの火が見えた。人間を焼くにおいはなかなか離れなかった。
その後結婚して夫とともに祝島に戻ったのは1980年。翌々年の秋に、原発建設計画が持ち上がっているのを知った。
ある日、原発建設反対の旗を立てた船が沖を走ったのだ。
「私は原発いうものは、原爆の悲惨なものを見ているから反対よ」
それから30年、酒井さんの考えがぶれることはない。
島の土木事業者や町会議員は中国電力からお金をもらい推進にまわっていたらしい。会合で弁当箱に札が詰められていたという。
反対する人の意見をまとめていかなければならなかった。次の年には自治会の4区の組長を選ぶ会議があった。建設反対の人を選ぼうと酒井さんの夫がみなに推されて当選。
組の会議の前、酒井さんはやって来た賛成派の人に言った。
「今日は原発のことで話すから、原発の好きな人は帰ってください」と。3、4人の人が「どろどろと」帰った。
島は500軒のうち、50軒が賛成。9割が反対だった。だが上関町全体は推進派が多く、すさまじい闘いが始まった。
今も続けられている島内のデモも島の女性が中心となって始めた。月曜日の夕方、「原発反対」と声を上げる。時に推進派の家の前で激しく。
続きは本誌で...
さかい きよこ
1925年、山口県生まれ。広島被服廠で働いている時に原爆で被爆。1980年に祝島に戻る。1984年から11年間、婦人会の会長。「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の役員もしていた。今も中国電力や県庁前行動などに参加する現役。