木村愛二の生活と意見 2002年2月 から分離

姜尚中と同様の脱亜入欧型の司法業界同世代にも寒心の至りでビラ撒き3年ガリ8年の実践

2002.02.07(木)(2019.8.7分離)

 昨日、2002.2.6.(水)、夕刻5時から6時30分、古巣の日本テレビ社屋を横目に見ながら、道路でビラ、ただし、VIDEO ACT! Video Catalog VOL3 なる 本文20頁B5判の小冊子にA4判とA5判の私製チラシを折り込んだ分厚いビラ(英語の弾丸、bulletが語源)を合計134部、ぶっぱなした。

 42年前の学生時代に「ビラ撒き3年ガリ8年」という「桃栗3年柿8年」をもじった現代格言を覚えた。正式には謄写版印刷というのだろうが、印刷の版下の臘紙を鑢板の上に置いて鉄筆でガリガリ音を立てて文字や模様を削り込むから、俗称で「ガリ版」と呼んでいた時代のことである。ビラ撒きの方が技術的には簡単だが、それでも年期が入らないと機関銃のようには撒けない。今でも文房具店で売っているが、ゴム製の凹凸付き指サックをはめて、目にも止まらぬ早業で通学、通勤の群れにぶち込むのである。

「ガリ版」が「タイプ印刷」に昇格した頃、その早業が必要なくなった。時は1972年、連合赤軍が浅間山荘で人質を取って立て籠り、などなど学生か学生上がりの思いう上がった暴力主義の阿呆な街頭分子らが暴れ捲り、いわゆる左翼の運動は壊滅的な打撃を受けた。私は当時、いわゆる合法的な労働組合運動の幹部だったから、そげな阿呆な半気違いの学生上がりの仕業に怒り狂ったものである。

 その同じ1972年が私の不当解雇の年でもあったことは、決して偶然ではない。