禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』20

メルマガ Vol.20 (2008.03.25)

第3章 人と機構

2 専門職群の位置づけ

A 我々も制作スタッフの一員だ

 PDが生産の原点を結び合わせる役割であるとすれば、その原点で番組制作に直接参加する職群が、アナウンサー、カメラマン、デザイナー、効果マンといった専門家集団である。

 これらの集団から上ってきたレポートは、番組制作上の問題点として一様に制作参加感の不在をあげ、それが自らの集団の内部に湧き上がる不満の大きな原因になっていることを指摘しつつ、番組の質の低下につながることを主張している。

 業務第3分会のレポートは次のように言っている。

―― 現実の仕事の中で我々が感ずるのは、あまりにも「非人間的な息苦しさ」である。特に多くのTV番組の中では、用意された台本通りの進行係りでしかない。そこでは人間の思想、感情を全て押し殺した態度でしか(本心ではない)番組制作にタッチすることができない。それは絵空事にすぎず、そこには真実らしさはあっても、真実そのものは希薄である。――

 またこのレポートの元になった組合員からのアンケートの中で、1組合員は、

―― 一部のフィックスされた番組を除き、ナレーション、インタビュー、司会、その他毎日我々が手掛ける番組の多くは、アナウンスを残すだけであとはほとんどできあがっている場合が多い。このためPDはただ読んでもらえばいい、アナウンサーは読めばいい、台本の項目を聞いてもらえばいいという、いわば無責任な愛情のない番組の作り方をしている場合もある。

 二人三脚で行かなければならない我々は、あまりにも遠く離れすぎている。――

とのべている。こうした感じ方はアナウンサーばかりでなく、カメラマン、効果マン、デザイナーなどの専門技能集団全体にいえることであり、そしてそれが一番大きな問題として提起されているところだ。もう少しレポートから上っている声をきこう。

 映画部のカメラマンは自分たちに対する「無知か偏見か、不当な評価にもかかわらず」毎日毎日生産の原点にいて撮影業務を行っている。その無知、偏見といのは「カメラマンはカメラ――機械であり、厳格な技術的駆使の能力を財産として持つものであるという時代遅れの見解」であり、「カメラマンという人間がスタッフの中江撮影という技術に最も近い位置を占め……それを手段として制作に参加していくという……集団のダイナミズムに対する認識が実に貧しいところからくるのではないだろうか」と考える。つまり、専門家集団を技能としてのみとらえ、そこに人間が入りこむ余地がないような関わり方しかされないという不満である。放送番組制作の喜びが、ドラマであれドキュメントであれ、創造の喜びであるならば、その喜びを味わうことができないような機械の代用としての扱いしかされていないことに対する怒りである。番組制作業務がラジオ時代の手工業的生産過程からテレビ時代に入って、やや複雑なメカニックな要素を加え、更に番組量の増大が加わって機構上でも分化が行われ、その間のつながりが薄くなるにつれて、専門技能集団は生産の中心から、同心円の外側へ外側へと押し出されてきた。それは決してPD個人個人に負わされるべき責任ではない。拡大され発展した生産手段に適応し得なかった協会の機構と、専門技能集団の位置づけのビジョンの無さによるものであろう。

 効果団は、昭和38年に、それまでの部外団体としての扱いから職員化された。そして各現場に配属されPDの一員としての道を歩むことになった。

 当時、職制側が口にしたことは「音響効果はPD業務の一つで誰でもできなくてはならないものであり、後継者はPDの中から研修を行って育成する。効果を専門業務とは考えない」ということであった。それから3年たった今日、効果マンはどうなっているだろうか。一部は、一般PDとなり、番組制作業務を行っている。また一部の効果業務は一般PDが行っている。しかし主要な複雑な効果業務については、旧効果団出身のPDに委ねられている場合の方がはるかに多い。芸能局第1制作部においては25名、または教育局青少年部においては10余名が独立している例外を除いて、大部分の効果団出身者が効果班として、旧効果団出身のPDは効果の仕事を主体とし、その合間に一般PD業務を行うといった形になっている。そして後継者の育成はかけ声ばかりで全く行われていない。このことは効果業務の特殊性、専門性を示すものであって、38年当時職制が口にしたことは、場当り的な言い逃れに過ぎなかったことを示すものであろう。現状の一例をみてみよう。

―― 学校放送部では6人の旧効果団出身のPDで、1週24本の番組をこなしている。2人一組になるのが基本だが「全体の2/3は効果マン不足のため1人で受持ち」、音の作成、生の音、テープ、円盤の音の選択、音の外録、編集、放出、さらに助手となるPDへの指示など複雑な業務を受持っている。

 平均化した数字からは質の要素が落とされてしまうから、やや正確さを欠くが、週24本を6人で割れば1人当り4本になり、2日に1本強の番組をこなすとすれば、PDとの打合わせや効果プランを立てる時間がどれ位になるかは想像できる。こうした条件からは効果マンは効果マシーンになりかねない。後継者の育成が全く行われていない現在、このままの状態が続けばますます人間が機械に近づくような労働条件しか与えられないが、それは効果音が単なる音に近づきつつあることを意味している。それで公共放送としてのNHKの立場を全うしうるかどうか。――

 また芸能第1分会の効果班の組織討議の中からは

―― 効果マンとしての仕事の楽しみがすっかり無くなってきた。この程度ならばまずまず水準並みだというところで諦めている仕事のやり方だ。……理動的な仕事を100として80までにするために仮に5時間あればできるとしよう。80を90にするためにはさらに10時間必要とする。しかし95にするためには20時間が必要になる。

 80までの仕事で良いんだということなら現行のパターンで出来上がる。しかしあとの10~20のレベルアップが本当は必要であり、それが効果マンの仕事のし甲斐なのだ。

 しかし今の経営はその残りの10~20はしなくても良いんだという考え方が支配的だ。

 こんな声があがっている。そして人員不足、機構の不備、パターンの欠陥をあげて次第に増大していく労働密度のために自由な質の高い創作活動の場がせばめられていきつつある現状が厳しく批難されている。例えば36年4月から効果の専門家が全く増員されていない事情一つあげても、効果の仕事がいかに不当に評価されているかが明らかである。

 アナウンサーにおいては、「用意されたスタジオが1時間しか無い中で、15分のインタビューを3本収録する」といった離れ業が行われている。しかも、「インタビュー内容は出演者が持参した台本のような形のメモによって決められ」、また打合わせをしようにも打合わせ時間が1本当り5分あるかないかでは、如何ともなし難い。そこからは番組制作スタッフの一員としての共通意識は生れてこないし、内容もお座なりなものになるのは当然であろう。

 この例は、番組制作に参加する意識が欠ける原因を労働条件の面からとらえた例だが、その底には専門技能集団を単に技能の面でしかとらえていない考え方が深く横たわっていることを示している。アナウンサーでいうなら「しゃべる」という口先だけの技能、効果団なら音を出すという技能、カメラマンならフィルムに画をうつしとるという技能、それだけでしかとらえていないということを示している。

 つまり、そうした技術を番組制作の一要素としてしか見ていないから、1時間に15分もののインタビューを3本もとるということが行われるのである。1本の企画ニュースを数人のカメラマンが撮影するといった事態が現出するのである。また、技能提供者としてしか見ていないから、企画段階からの参加を考慮した人員配置は全く行われず、機構としても参加できるようにはなっていないのだ。「我々今日のアナウンサーの意欲、努力は決して他に劣るとは思わないが、単に声を出す単一機能集団として考えられ扱われる現状では、よい番組制作への関わり合いは持ち得ないし、また個人的な努力において機構の壁を乗り越えようとすれば、それはアナウンス室の管理の側はもちろん、番組制作の現場においても、機能効果の上で阻害条件として受け取られてしまう」という声は、人員不足と機構の不備を指摘しているものであろう。

 ともあれ、番組制作へのより積極的な参加を希望する声は各集団とも強いものがある。

―― 番組制作の一翼を担うものとして、内容の充実した密度の高い美術業務を通じていかに良い番組を出すかに絶えず努力をしている。我々としては企画の段階からでき得るかぎり番組制作へ参加し、その番組の出来上りにまで責任を持つようにあたるべきだと考えている。(教7)――

―― そのためにデザイナーの労働条件の改善を是非図らなければならないが、まず美術デザインについての認識を確立して、デザイナーの在り方に責任のあるビジョンを経営が示さなければならないはずだ。

 しかるに今の現場にはおそるべき批評の不在がある。専門的な理解を示そうとしない素人的批評が横行している限り、我々の専門家としての番組性格への参加の道はいつまでも閉ざされてしまうことになってしまう。(芸1)――

―― 録音業務の理想的形態としては、企画の段階からダビングまでの業務をすべきです。

 これによって音響の創作、番組の質的向上などさまざまな利点が生れてくるのです。(業4)――

―― 組織上、よい放送のためアナウンサーのあるべき姿は、企画の段階から番組制作にタッチし、スタッフの一人として討議に参加し、放送実施後も検討会にまで参加できるような過程を全員が持つことである。そこに創造の喜びがあり、よい放送の生れる母体があると思う。(業3)――

―― 特殊な撮影や新しい技術を必要とする場合、作品の要求からはじめて次第に習得されていくべきですが、作品の要求ということは創作上の要求、つまり内容――テーマ、モチーフの設定――からカメラマンがスタッフとともに撮影設計を作り上げていくという手順があって、その中から出てきた様々な技術的要求ということです。(業4)――

 特に指摘しておきたいのは、これらの声が全て自らのおかれた立場の改善ということにとどまらず、「よりよい放送のために」という一点に向かって吹き上げられていることである。