禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』19

メルマガ Vol.19 (2008.03.21)

第3章 人と機構

1「プロデューサーからの訴え」

G 国際局アナプロ合理化の問題点

 国際局には、独自のアナプロの問題が起こっているが、これも合理化へ
の一環として協会側が行ったアナプロ制度に端を発したのであり、見過ご
しにできない。

 国際第2分会からのレポート。

―― アナプロシステム発足以来、欧米部の英語アナウンサーが、強いられている労働強化は、協会側のいう合理化がいかに非合理的であるかという典型的な例である。

 英語アナウンサーは、特殊な能力を必要とし、それを実に向上させ、よく発揮してゆくことが望ましいのだが、一時は番組制作はおろか、ラジオニュース編集までやらされた。これは業務量だけの問題ではない。同種の業務の多少の増大に較べて、異種のアナとプロを同時に進め、しかも、その両面において向上してゆくことは不可能に近いのである。待遇面でこれを救うか、さもなければ人員増によって負担を軽減する以外に、特殊技能を武器とする英語アナウンサーの現在の不満は解消されないと思う。これらが実現不可能ならば、アナプロシステムはご破算にすべきである。

 今一つ、アナプロシステムのお陰で、従来に較べて、一見安上がりに番組ができるかのようであるが、結局はアナウンサー・プロデューサーが苦労して原稿を書いて、外人契約者の給料を稼いでやっているような形なのは、非常に不愉快である。――

 国際第2分会では、このアナプロシステムに関してアンケートをとったが、例えば、

―― アナウンサーが優秀なプロデューサーまたはライターであることもあろうが、両方に等しく優秀であるためには、そのうちのどれかもっと伸びるものが犠牲になってしまう場合がある。大げさな比較だが、文豪が名ナレーターとは限らず、名ディレクターが名優の演技ができるとは限らない。――
という回答が寄せられている。ただ、この人も

―― ただ、私の経験から言えることは、スクリプトを自分で買いたりPDをやると、アナウンスにとって有益なことが多い。――

ということは認めている。ただ、しかし、

―― 現在のシステムには反対である。即ち、現行のアナプロの目指すところが “少ない人間で多くの仕事を”、つまり合理化のみにあることは明らかで、これでは必然的に何かが犠牲にならなければならない。その何かは、つまり番組の質である。

 アナウンスに全力を傾注することが出来ないために手を抜く結果となり、さればといって、アナウンスで手を抜いた分だけプロデュースに回るかといえば、必ずしもそうならない。

 結局、両方とも低下することになるのである。――

と述べているが、これはPDが技術ミキシングを平行して担当する場合に
も全く同じことが言えるわけで、合理化がいかに非合理的であるかを示している。

H PDは強く抗議する

 いかにPDが、複雑でしかも苛酷な労働条件で働いているか。いかに合理化の美名のもとに、なしくずしにPDの労働強化が行われてきたかを、我々は明らかにしてきた。

 そこで我々は協会に対し、これらの事実をもとに強く抗議する。PDはただ良い番組を熱意をもって創りたいだけなのであるにも拘らず、職制の言動によって平然と番組の質の低下が行われ、PDの意欲喪失と沈滞ムードを醸し出す因をつくっている。

 労働者の意欲を喪失させることは、すなわち、近代的な労務管理に失敗していることであることを、協会側は知らねばならない。人が有り余り、1人が辞めれば1人が雇えた時代は過去の遺物となった。

 現代において経営者は、労働者からその欲するところに従って豊かな才能を引き出し、人をそれぞれの仕事に生かす義務がある。それは、労働者に対する義務であると同時に社会に対する義務でもある。

 PDは、労働者の権利として、「労働時間短縮」「賃金向上」とともに、「快く働く権利」を要求する。この第3の権利実現のために、「カネと人手とヒマ」を! 言い換えれば、「機構と番組予算と編成」について要求する権利があると考える。

 かつて(今も形だけは残っているが)新聞が、経営と編集を分離し、経営権に対して「カネと人手とヒマ」を要求する編集権を打ちたて、その独立性を持って、言論の自由を守ってきたことを考えれば、我々の要求は、けだし当然のことである。

 教育第4分会は、次のように主張している。

―― 我々は一般的に考えて、放送企業体は番組が商品であり、それを良くしていくことが企業体の勝負であると考える。

 この勝負に勝つために、どこに金をかけるか。方法は、制作するスタッフつまり人間に金をかけることと、番組機材に金をかけること、この二つしかない。平たく言えば、テマとカネをかけなければ良いものはできない。

 限界状況に追い詰められてやることも、或いはその中から能力を開発するという副産物があるかもしれないが、それは非常時ないしは窮余の一策であって、やはり最後には「テマ・ヒマ・カネ」をかけたものにはかなわない。合理化が、テマとカネをかけないで番組をつくることを指向している限り、番組の質は次第に低下して生活を豊かにする文化活動ではなくなり、単なる権力の意志伝達機関と成り下がってしまうであろう。

 厳しい試練の中から良いものができることを否定するのではない。しかしそれにしても、意図する番組が満足にできるためには、それだけの金はかけられなければならない。大体、試練は機械的合理化の中から生まれるものではない。なぜなら、その合理化は作られるものの内容を全く評価し得ず、ただ如何に簡単に製作するかに、その目的があるからである。放送企業体は、その商品たる放送番組こそが、己の唯一の社会における生存理由であるということを忘れてはならない。