禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』4

メルマガ Vol.4 (2008.02.07)

第1章 空洞化すすむ「国民のための放送」

2 番組内容と評価

A ビジョンなき編集方針=基準なき番組評価

 「提案のへそ」や「企画の核」を無視する安易な採否決定の問題を論じた際確認したように、ユニークさや核を発見しようという姿勢の無さは、ビジョンを持とうとしない姿勢と根は共通である。つまり、向上の姿勢がないことである。そこから生ずる問題については、次の芸能第4分会の報告からうかがうことができる。

―― 評価の基準は番組に対するビジョンの確立なしには考えられない。これは、個々の番組について言えることだが、芸能局全体についても、対報道局、対教育局との関連においても、安易な、視聴率をかせげばそれでこと足りるという姿勢を保っている限りは、芸能局のビジョンは全くないという他はない。例えば、試作番組のオーディションに対する評価がきわめて曖昧であるとの意見が出たが、これはオーディション版の検討においても個々の番組評価の場合に見られる欠陥が集中的にあらわれ、単なる印象批評のさぐりあいから結論が出されている状態である。(芸1)――

 この発言は、後に詳論する、(第3章-4)芸能局機構=プロダクション・システムの欠陥に関連して述べられたものではあるが、ビジョンと評価の関係について正しく的を射た考えを示している。

 ビジョンを持とうとしない姿勢の裏には事大主義(つまり、何らかの既成の権威に頼りたいという意識の在り方)があり、それは安易な視聴率重視をしか生まない。もっと正確には、視聴率を「口実」としてのみ利用する態度であり、視聴率の価値を評価の基準と視点の欠如から、いつのまにか、視聴率の上下に一喜一憂してしまう事態とでもいえようか。

 NHKの札束番組とか、スターバリュー優先の芸能プロと呼ばれる番組は、全てこうした姿勢の中から生まれてきた。少なくとも、同系・同色のプロが第2陣、第3陣などと称して連発されてくる背後にはそれを見ないわけにはいかない。

―― ドラマは役者で見せるもの、という考え方がいまだに強すぎる。ドラマにスターの魅力は必要な要素ではあるが、それに寄りかかりすぎることはドラマの本質の崩壊を意味するのではないか。現在、企画部で台本を決定する際に、この台本はこの役者でなければ使えない、ということがあまりに多すぎる。台本が描こうとする内容よりも、役者のネームバリューの方が先行するようでは、ドラマではなく、単なる絵巻物を見せることに終わってしまう。NHKのテレビドラマが堕落している原因のひとつはそこにある。――

 これは「芸能局では演出力を重視し、演出者の育成ということに最も力を入れている」といいながら、「役者で見せるドラマ」が、毎年毎シーズン、NHKの番組の主流を占め続けていることに対する不満である。総合的表現であるドラマが、本質を見失った単なる絵巻物にしかすぎなくなっていても、ある程度の視聴率さえあれば、無反省のまま、くり返しくり返し、人々にあきられるまでおしつけるという、このNHK的態度は、次に示す、子どもドラマ部門での「原作もの偏重」と相通ずる問題の所在を示している。

 少々、長文にわたるが、あえて、ほとんど全文を引用したい。

―― 『不思議なパック』『チロリン村とクルミの木』『ヒョッコリヒョウタン島』『宇宙人ピピ』といったいくつかの番組は、子ども番組において全く新たな領域を開拓したものと言えよう。これは単に新しいジャンルの追求ということのみでなく、子ども向けテレビドラマというパターン内においても、例えば『テレビ偉人伝』という番組は、偉人伝という通俗で陳腐な素材を、あえて、テレビ偉人伝とすることにより、新しい意味づけを発見しようとした。それが成功したかどうかはともかく、当時の担当者のねらいがその辺にあったことは事実である。

 しかし、その後の子ども向けドラマ番組の足跡を顧みるに、『ドラが鳴る』等少数の、いわゆるオリジナルものをのぞけば、子ども向けテレビドラマ番組のほとんどが、既に評価の決まった児童文学のテレビへのひき写しにしかすぎないものが多くなってきたのがまず目につくであろう。この傾向が一段と顕著になったのはついこの2、3年である。なおはっきり言えば、昨年の『次郎物語』が当時の芸能局テレビ文芸部から放送され、かなりの高視聴率を得てからであろうと思われる。事実それ以降、『次郎物語』の脚色者であるY氏は、以前は子ども番組でかなりのオリジナルなドラマを書いていたのに、ほとんど、いわゆる名作の脚色専門家となった感がある。『次郎物語』以降の子どもドラマは、去年の試作提案期をふり返ってみれば、あまりに象徴的である。職制は関係チーフを動員して、いわゆる児童文学の名作を読みあさり、その結果生まれ出たものが、『愛の一家』であり『路傍の石』であり、その後を受けた『一直線』なのである。ここでいわゆる原作物を大別してみるに、一方は原作の持つ教育性をそのままテレビを通じて子どもに感銘的に与えようとするものであり、(『次郎物語』『路傍の石』『愛の一家』)もう一方は原作のアナクロニズムにもかかわらず、原作の持つユーモア、明るさ、子どものバイタリティー等をある程度現代ふうに焼き直して、子どもたちにアッピールしていこうというものである(『ファイト君』『一直線』)。今やまさに子どもドラマは文芸原作物の大流行期であると言えよう。原作物が全てオリジナリティーを持っていないということが言えないように(良い例として『少年オルフェ』)、書き下し物が全てオリジナリティーを持っているということが言えないことは無論である。しかし、書き下し物がオリジナリティーを持っているかどうかを問われる以前に、原作を持たないという理由で提案の段階で問題にされず、台本試作の道をとざされており、一方たとえ担当者が原作の子どものバイタリティーにつながる部分のみを強く前面に打ち出し、全く換骨奪胎を試みようと意気ごんでいるとしても、その為の原作の作者に佐藤紅録をひきずり出さなければならぬような現状は、やはり極めて重大な時期に来ていると言わねばならないであろう。……

 それがどこから出たものであるにせよ、原作主義をとらざるを得なくする消極的理由の一つに『オリジナルにいいものがないじゃないか』というのがある。確かにすぐれたオリジナルな子どもドラマを数多く生み出したとはいえない我々子ども番組担当者も深く反省する必要があるところでもあるが、すぐれたオリジナルはやはり時間をかけて共に育てていくという風土のない所では、いかに担当者にはっぱをかけたところで、生まれてこないのは当然であろう。原作ものを積極的に進めようとする一つの根拠に、『次郎物語』があんなに見られたのではないか、子どもたちはああいうものを欲しているのだ。それが証拠に、中学生の読書結果などを見ても、『二郎物語』や『路傍の石』が上位を占めている。彼らが欲し、また成長期の一過程において、必要の書であるものをテレビドラマという形で与えてやるのが何が悪い、という見解がある。この見解はいくつかの問題を混在させている。その一つに視聴率の問題がある。我々は『ヒョッコリヒョウタン島』やマンガを見る子どもたちが多数いると同時に、『次郎物語』を見て深く感動する子どもたちがまた多数いるという事実は事実として忘れてはならない。(『次郎物語』や『路傍の石』が常に読書調査の上位を占めるという、我々の児童期から現在にまでつながる子どもの読書傾向を形作る読書指導の在り方に、ある種の疑問を抱いていないわけではないが、そのことはさておいてここでは一応、これらの原作が子どもたちの読書としては最良のものの一つであり、その教育的、文芸的価値は非常に高いものであることは疑わないということを前提として論を進める。)どのような番組であれ、放送されるからには高視聴率であることを望むのは当然であるが、問題は、原作に依拠した高視聴率に安心していていいのか、という点にある。無論、『次郎物語』の成功は、単に原作によるのみならず、脚色者や担当者が、苦心してテレビドラマ化した努力が大いにあずかっているには相違ないのであり、その意味では、テレビドラマ化しにくい文芸作品をあえてドラマ化して世に問うという、原作ものを脚色して出すことの積極的な側面を認めるに吝かではない。しかしその場面でも、一旦テレビドラマ化するならば、原作を乗りこえる、ある映像的発見がなされない限り、たんに読むのを面倒くさがる子どもたちに労せずして視せてやるぐらいの価値しかないのではないか。その点で振りかえってみるに、どこまで発見があったか甚だ疑問である。

 担当者が主観的に発見だのなんだのと自己満足的なことを言っても、肝心の子どもたちが視てくれなくてはしかたがない。「その点原作ものは確実に一定層はつかむ、なにも原作ものでなくてはいけないと言っているのではない。原作ものは安心して出せるからだ。」という声がある。この声は、一見穏当のようでいて、実に無責任な、退廃したことばである。都合の悪いところでは、放送の「公共性」「教育性」(いずれも「」つきの)を前面に出して、子どもの嗜好性をおさえ、都合の悪い時だけ子どもの嗜好性に依拠するご都合主義はしばらくおくものとしても、この言葉には、テレビ文化ともいうべき新しい文化を創造しようとする主体的責任の一片すらないことを示している。名作絵画の複製が意味あるように、名作ものの映像化も、それのみである種の意味はある。しかしそれが全てでは困るのだ。発見とは、主観的な、単に手法的な問題ではなく、新しい意味の発見でなくてはならないのだ。

 映画産業の崩壊は文芸大作主義が幅をきかせ始めた時に始まった。ということばは、決して子ども向けテレビドラマに無関係なことではない。現在の産業構造からみて、映画産業に対する、テレビ産業の相対的優位にあぐらをかいて、ことなかれ主義的な原作優先主義を推し進めていけば、いつの日かこどもたちにそっぽを向かれてしまうことがないと言い切れる人がいるだろうか。(教4)――

 教育第4分会の報告はたまたま子どもドラマの在り方について論じているのだが、芸能局のドラマ番組にも全く同様な指摘が可能である。ただ、視聴率偏重についていえば、世論・文研分会も、協会の態度について大きな疑問符をつけて、次のような報告をよせている。

―― 現場の制作者側からの声として編成面での「視聴率偏重傾向」に対する批判はかなり強い。これにはもっともな点が少なくない。「視聴率は個々の番組の聴視という事実の有・無(番組の放送時間の半分以上を見聞きした人を「有」とする)を数量的に明らかにするものにすぎず、番組特性の上でどの点がすぐれているのかを明らかにするものではない。それに世論調査所で行っている視聴率調査は個々の番組の視聴率をさぐることを第一義的な目的としているのではない。むしろ放送開始から終了に至るまでの時間の流れの中でNHK、民放を含めたオーディエンスの構造なり規模がどのように変化したかをとらえることに主眼がある。

 したがって視聴率調査結果が何らかの評価にもし結びつくとしたならば、それは編成評価であって個々の番組の評価ではない。現場から視聴率偏重主義に対する批判がたくさん上っているのは、視聴率をストレートに個々の番組の優劣や出来、不出来に結びつけて議論し、製作者への締めつけや番組改廃の口実に利用したりする管理職が多いためであろう。また視聴率調査結果を利用する場合にはそのオーディエンスの規模だけでなくその構造にも等しく注意を払い、さらに国民の生活時間と対比してみなければならないわけだが、そうした点を何ら考慮しないで数字だけで視聴率を議論する管理職がいれば、職務の怠慢、無能をみずから暴露しているようなものである。

 次に最近資料として現場職制に回覧されているビデオ・リサーチ社の機械による視聴率調査結果についていえば、なるほど時系列的に聴視態様の変化が連続してとらえられているし、データ処理も早いが、面接法による調査結果とちがって、受信機が動いているかどうかつまりセッツ・イン・ユースを確認するのみで、具体的に誰が聴視したのか、男か女か、子どもか、大人かということは全く不明である。また有効サンプル数もビデオ・リサーチ社の場合は全国で900弱、関東地区400弱であり、世論調査所の全国4000関東地区1000に及ばない。つまりそれだけ信頼度は低いわけである。

 現場職制がこうした結果に一喜一憂したり、それをもって番組評価に利用したりすることは調査の性格を知る調査マンの立場からすれば奇妙に思われる。

 さらに番組視聴率を番組に対するオーディエンスの評価と受けとってはならない理由を挙げよう。それは聴視率の高さと番組に対する心理的充足感とは必ずしも相関関係にはないということである。番組の聴視率が高くてもオーディエンスがその番組に十分満足していない場合もある。なぜなら、(1)一家に1台という普及状況では家族の中に、チャンネルリーダーに同調してやむなくその番組を視聴しているものがある。(2)習慣化しているテレビ視聴時間にその裏番組のいずれもがさらに満足できるものではないために、より悪くない番組を選択視聴する場合があるからである。

 文研・世論がこの面を補うべく開発したのが番組内容評価調査であるが、これは、「制作された番組がその狙った対象者にどう評価されているか、どうすれば目的者からより高い評価が得られるかについての情報を得ることを一つの眼目にしている。その根本的な考え方は、番組の全体像のレベルと製作者がその制作意図を活かすために操作しうる主要な各個の構成要素のレベル(「テーマ」「出演者」「装置」等々)とし、それぞれの評価との関係分析を行い、どの要素をどのようにすれば全体的な評価が高まるかの回答を得ようとするものである。ただ評価の指標として何を用い、どんな分析をすれば、「制作部門」へのフィード・バック資料として適当なのかという問題については、まだ確定したわけではなく、調査方法としては、開発段階のものであるから、この調査結果の利用に当っては、慎重な配慮がなされなければならない。

 ただここで問題にしたいのは、聴視率調査であれ、番組内容評価調査であれ、いずれも既に放送されてしまった過去の番組について行われるということである。いくら方法が厳密になったとしてもそれだけで番組編成の評価資料とするには不十分である。

 「国民のための放送」ということを標榜するのであれば、むしろ国民の放送に対する期待なり要望をいろいろな次元で正確に把握しようとする努力こそまず重視されなければならない。従来意向調査と呼ばれてきたこの分野には聴視率調査の脇役程度の地位しか与えられていなかったが、単なる受け身の聴視者の姿だけでなく、放送に要求する聴視者の姿をも積極的にとらえるのでなければ「国民のための放送」は実現されないだろう。

 番組内容評価調査にしても「番組のねらい」がどれだけ達成されたか、どうすればよりよく達成されるかについての情報を得ることを目的としているが、「番組あるいは編成のねらい」自体に対しても国民の意見を聞くべきである。

 番組の編成や評価さらに調査の面でも聴視率偏重主義を克服すべき時期が来ているのである。

 ここで「内容空疎なNHKドラマ番組」という、いまや外部でも一般化してしまった不満の声に対して、それが正当であるのを知っているだけに、最も苦しみ苛だっているのが、当のNHKプロデューサーであることが広く知られなくてはならない。

―― 我々はなにも、イデオロギーをふりかざしたドラマ、問題意識が表面に出すぎる先鋭的なドラマを作りたいといっているのではない。少なくとも商業放送の良心番組と言われる「判決」や「若者たち」に負けない社会派ドラマ、沈滞した日常性から一歩をふみ出す異色ドラマを作り出したいのである。

 大型連続ドラマを充実することは結構だが単発番組を重視することも必要である。娯楽番組に力を注ぐことはもちろんだが、人間について、社会について考えるドラマも存在しなければならない。

 現在NHKが自信を持って放送している「面白いドラマ」「よいドラマ」は、「おはなはん」「横堀川」のみである。「太陽の丘」「あしたの家族」をはじめ、NHKドラマの看板番組であるはずの「NHK劇場」に至るまで、毒にも薬にもならないものが放送されている現状はどう理解したらよいのか。

 国民のための放送、という言葉はドラマの場合、平均的国民向けの安全性の高いホームドラマの放送、と読みかえられているようである。全国の視聴者に満足してもらう放送を出すという大前提は、もちろんドラマの場合にも適用されるのだが、その意識が強すぎてドラマ全体が低調になっているのが現状であるといえる。(芸3)――

B 「平均的国民」・「期待される人間像」への傾斜

 「国民のため」が「平均的国民のため」と読みかえられていくという、この矮小化された国民像、人間像への傾斜は、NHK路線の全体を通じてうかがえることである。

―― 商業放送の子ども番組やマンガ番組は子どもに迎合しすぎている。NHKはそれとは違う教育的な番組を作るべきだ、それがNHKの使命でもある、という大義名分をカクレミノにして何か方向違ちがいのことが押し進められているのではないだろうか。そうでなかったら、国民の多数が支持しているこの大義名分、それにも拘らずその下に作られた実際の番組が極く少数の人にしか支持されていないという現状をどう考えたらいいのだろうか。……

 昭和41年度の子ども番組の編成方針が示された時、それまで対象が低い年齢層(小学生)中心に偏りすぎていたとして、新しく高年齢層(中学生)を主な対象とした番組を重点目標におくことになった。その線上にあたるものとして、各界の一流人物と全国各地からえらんだ子どもとスタジオで交流させるという「あすは君たちのもの」が提案(担当者からではなく)された。問題になるのは、この一流ゲストなる人物が多くは大人にとっては十分知名度が高くても子どもたちからはほとんど知られていないということだろう。

 41年度の子ども番組編成方針の裏には、公共放送を使命とするNHKとして、いたずらに子どもの低い興味に迎合することなく、商業放送に真似のできない筋の通った番組をつくるというネライがあったものと思われるが、それが実は、「子どもに迎合しない」という大義名分にかくれて。むしろ大人の期待する子ども像に迎合するという目的をかかえているのではないか。

 子ども番組がほんとうの意味で子どもに密着したものでなくなり、「大人の期待する子ども番組」にかわって行くのではないかという危惧もこのへんから生まれてくる。(教4)――