週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.74 2005.02.10

[20050210]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.74
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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   終章:王国の哲学 

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◆(終章-3)はじめにコトバありき ◆

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 「全地は同じ発音、同じ言葉であった」(旧約、『創世記』、11章)。「初(はじ)めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。……すべてのものは、これによってできた」(新訳、『ヨハネによる福音書』、1章) 

 もちろん、わたしは神の存在を信じない。だが、この時、それまでに暗中模索していたいろいろなコトバの謎が、わたしの頭の中で、湧きたつようにこの1点に流れこんできた。そして、もし、わたしの推理が当っていれば、このコトバは、紀元前8000年頃の人々によって語られたコトバなのだ。

 では、それまでにわたしが手繰りよせていたコトバの謎は、どんなものであったか。そのつながりは、果して確かなものであろうか。

 まず最初には、すでに紹介したような、アフリカの神話と、旧約聖書の酷似がある。この系譜は、また、シュメールのギルガメシュ叙事詩やギリシャ・ローマの神話のみならず、インドのヴェーダにもみられることが、早くから指摘されている。そして、おそらくは、世界各国の神話、宗教の骨組みにもつながっているであろう。

 わたしは、これを背景にして、まず、結論からのべ、あとは、想像をめぐらせることにしたい。

 すでに農耕起源のところでのべたように、最初の農耕文化のにない手は、周辺の狩猟・採集民とたたかい、そして彼らを同化していった。その時に、いままでのように、自然から奪うのではなく、人間だけに与えられた能力によって、農作物を育て、収穫をする、という作業を教えなくてはならなかった。人々は、農作物の種類を教え、育て方を教え、果物の種類を教えた。そして、収穫の時期まで、待つことを教えこまねばならなかった。彼らはまた、当然のことながら、自分達の言語で教えた。

 この行為、つまり、言語を異にする人々に、新しい文化をつたえる行為が、バントゥ語の文法にきざみこまれ、思想体系をなした。

 つぎの段階には何が起っただろうか。人々は、本拠地をはなれて、ひろがっていった。その時にわたしの考えでは、三部族の協力体制ができた。農耕・牧畜・狩猟の三大分業である。狩猟は、まだまだ重要な生産部門だった。かれらは、お互いをどう区別したであろうか。わたしは、一応つぎのように仮定する。発音は、あくまで、説明の都合上のものである。

 農耕部族……ケ・ムントゥ
 牧畜部族……セ・ムントゥ
 狩猟部族……ヤ・ムントゥ

 この、ケ、セ、ヤは、いずれも、農作物、家畜、狩猟に関係のある、何らかの総称に由来するものだと考える。最初の総称は、簡単な発音のものだったにちがいない。

 ケ、と対応するのは、樹木であろう。スワヒリ語では、木のことを、ティという。日本語では、キであり、英語では、トゥリーである。

 セ、については、動物は粘土でつくられた、という神話を参考にする。スワヒリ語の文法でも、動物は、「事物」のあとになっている。そして、物は、トゥである。ドイツ語のディング、英語のシングが対応する。

 ヤ、については、狩猟をする場所を考えてみる。スワヒリ語で、場所を、ハリという。日本語の、ノハラ、ハラッパ、英語の、フィールドが対応する。だが、日本語に、ヤマ、ヤブもある。そして、紀元前2300年頃の、ハルクーフの碑文には、「ヤムの国」とか、「ヤムの首長」という単語がでてきた。そこで、ハリ、アリ、ヤリ、ヤミ、ヤム、ヤブというような、発音のつながりを、想定しておく。

 ともかく、以上のような、基本的な単語のつながりは、意外に深いものである。いずれは、アフリカの言語学者が、材料をそろえて、解決してくれるのではないだろうか。

 人々は、三大分業の連絡をたもちながら、各地にひろがっていった。行手には、農作物を荒し、家畜を奪いとる人々が、まちかまえていた。三部族の協力は、身を守るためにも必要であった。そして、その協力関係は、それぞれの部族が強大になるまで、維持されなければならなかった。

 ところで、ノアの息子は、ハム、セム、ヤペテであった。古代エジプト語では、ハム、セムは、ケムトゥ、セムトゥであった。これは、ケ・ムントゥとセ・ムントゥがちぢめられたもの、と考える。 

 ヤペテは、すぐにはわからなかった。だが、ヤ・ムントゥを、ヤブ・ムントゥだったと想定すれば、ヤブ・ムト、ヤベテ、ヤペテの変化は、説明できる。

 さらに、古代エジプトの最初のファラオとされているメネスは、ムントゥであろう。つまり、神ではなく、人間である。そして、序章で紹介した「ケメト」の論争は、両者の主張とも、間違いだと判断する。ケメト、またはケムトゥは、黒い人間でも、黒い土地でもなく、誇り高き農耕文化の持主のことであった。

 では、古代エジプトの王族が、レムトゥ・ケムトゥと名乗ったのは、どういうことだろうか。

 わたしはこれを、ケムトゥより出でたるレムトゥ、と解釈する。レ、とは、太陽神ラーのことである。ラーは、すでにのべたように、畠作物の神であった。ケムトゥは、本来、樹木性農作物の栽培者であった。その中から、新しい段階の畠作農耕部族、レムトゥが出現し、最有力となったのだ。

 では、このようなバントゥの部族は、ナイル河谷以外にはひろがらなかったのであろうか。そして、コトバは、人々とともにつたわらなかったのであろうか。

次回配信は、終章-4「地に満ちよ」です。

(  (-_-;) 満千代さんて誰だっけ?  )

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