週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.70 2005.01.13

[20050113]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.70
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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   第七章:ナイル河谷 

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◆(第7章-10)イスラム支配 ◆

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 アラブの支配層は、人種的にみて、エジプトや北アフリカ一帯の住民と、そんなにかけはなれてはいなかっただろう。また、エジプトには、イスラム支配以前からの古い階層が残っていて、人種的にも複雑な構成がみられたにちがいない。だが、それらの要素は、イスラムの、新しい中世的社会構成の中で混合されていた。

 むしろ、この時期のポイントは、イスラム世界の繁栄が12世紀以上もつづいたことにある。そしてその間、絶え間ない家内奴隷の流入がつづいた。では、家内奴隷の供給地は、どこだったのであろうか。

 ヨーロッパ系の学者は、ここでも大方、ためらいをみせる。しかし、ヨーロッパの近代美術、ロマン派文芸の主要テーマのひとつに、トルコ帝国の、ギリシャ系オダリスク(ハレムの女奴隷)があったことは、周知の事実である。それゆえにこそ、バイロンは『海賊』を書いたし、みずからギリシャ独立戦争へとおもむいた。奴隷といえば、黒色人が連想されるようになるのは、つい最近、18世紀ごろからの現象にすぎない。それまでは、むしろ逆だったのだ。

 イスラム世界への、主要な奴隷供給源は、やはり、ヨーロッパ大陸にあった。そして、アフリカの内陸には、サラセン帝国よりも古い歴史をもつ強大な帝国が繁栄しており、断じて、奴隷狩り地帯ではありえなかった。スーダンにはフング帝国、チャドにはボルヌ帝国、西アフリカには、ガーナ、マリ、ガオなどの諸帝国が、興亡の歴史をくりひろげていた。

 たとえばシュレ=カナールは、アラブ・トルコ時代の奴隷制度について、つぎのように書いている。

 「ガーナやマリの最盛期に、黒人奴隷――独立の部族のなかからさらってきたもの――がアラブ世界に売られていたことはたしかであるが、アラブの著作家のものを見ても、この貿易がとくに大々的にやられた証拠はどこにもない。当時のアラブ世界には、ヨーロッパからきた奴隷もいた。キリスト教徒は、キリスト教圏の辺境地帯からさらってきたゲルマン人やスラヴ人の〈偶像教徒〉を、良心の呵責もなしに〈異教徒〉に売りとばしていたのである。黒アフリカからの奴隷輸出は、規模からいっても、こうした取引を凌駕するものではなかったし、たぶんそれよりも小規模だったにちがいない。……当時、アラブ諸国むけの宦官の製造は、ヴェルダン((パリの東方、ドイツ国境より))の町のもっとも活発な産業部門をなしていた。ヴェネチアも、アドリア海岸のスラヴ人を使って、ながいことこの商売をやっていた。奴隷という名前自体、このスラヴ人の名称からきたのである。……アラブ世界の奴隷制は――アメリカ植民地とちがって――生産面で大きな役を演じておらず、主としてハレムや大家に妾や召使いを供給するためのものだった。

 しかも、この貿易は片面貿易ではなかった。マリの皇帝の小姓のなかには、エジプトで買いいれた白人奴隷もいた」(同前、p.173~174)

 シュレ=カナールの記述は、主に西アフリカ方面を対象としている。だが、東アフリカ海岸の貿易についても、フリーマン=グレンビルが、同様な主張をしている。

 「奴隷については中世の文献でそれにふれているものはごくまれである。15世紀のインドに東アフリカ人の奴隷がいたとしても、どこか他のイスラム世界にも多数がいたとは考えられない、ほかにも豊富な源、とくにカフカース〔黒海とカスピ海のあいだの地方〕とか西部アジアとか、があり、そこから供給できたであろうから」(『アフリカの過去』、p.102)

 さらに、オスマン=トルコは、バルカン半島を征服し、オーストリアに迫った。バルカン半島は、当時最大の奴隷供給地となった。

 しかも、バルカン半島の住民によって、オスマン=トルコ最強の奴隷軍団、イェニ=チェリが組織され、北アフリカにも配置された。この軍団の兵士は、バルカン半島の住民のなかから、5年ごとに、健康で美貌の少年を選抜し、強制改宗と特殊訓練とによって、最も狂信的なイスラム親衛隊員にきたえあげたものである。最大時は、14万人に達した。この伝統は、確実に300年は続いている。

 以上のような、イスラム時代の人口動静も、「南方からの黒色人奴隷」という、政治的俗説によって、なおざりにされてきた。いづれは正しい方法にもとづいて、相当に適確な推定がでてくるであろう。たしかに、シュレ=カナールのいうように、家内奴隷の人口的比率は、後世のアメリカ大陸における農業奴隷のそれにくらべると、少なかったであろう。しかし、この制度は12世紀にもわたって維持された。

 アラブ・トルコ時代には、奴隷も一定の時期がくれば、自由民になれた。そして、長期間にわたる混血によって、北アフリカ、ナイル河谷の住民の人種形質は、徐々に変っていった。

 そこへ近代ヨーロッパの学者がやってきた。ヒエログリフの解読で有名な、フランス人のシャンポリオンもその一人である。シャンポリオンは、ヒエログリフ解読という偉業をなしとげた。しかし、もうひとつの注目すべき「発見」をした。彼は、古代エジプト人は、「黒色人種(ラス・ネグル)」ではない、という奇妙な論理を「発見」した。それは、どういうことだろうか。

次回配信は、第7章-11「シャンポリオン」です。

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