週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.65 2004.12.09

[20041209]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.65
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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   第七章:ナイル河谷 

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◆(第7章-5)古代の証言 ◆

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 ヘロドトスは、コルキス人を、エジプトの遠征軍の残留部隊だと考えた。そして、両者が同一人種だと判断する第一の証拠として、コルキス人もエジプト人も、「色が黒く、神が縮れている」点をあげた。これを一応、男の特徴としてみよう。では、エジプトの女については、どうだろうか。

 ギリシャの神殿の巫女は、エジプトからきたものだ、と信じられていた。そしてヘロドトスは、エジプトの神官が、このギリシャの巫女の伝説と、見事に符合する語りつたえをもっているのを発見した。つまり、かつて、二人の巫女が神殿からつれさられ、一人はギリシャにいった、というのである。

 ところで、ギリシャの伝説では、その巫女が、「黒鳩」として表現されている。ヘロドトスは、まず、ハトにたとえられたのは、巫女の言葉が、外国人であるギリシャ人に、ハトの鳴き声のように、きこえたからであろう、と推理した。ついで、つぎのように肌色の問題を指摘した。

 「その鳩が黒色であったというのは、つまり女がエジプト人であったことを意味する」(『歴史』、2巻、p.57)

 わたしは、ヘロドトスがエジプト人の黒さを、他のことを論ずるための証拠にあげている点を、積極的に解釈する。つまりヘロドトスは、これを動かしがたい証拠としてあげている。エジプト人が黒いというのは、だれしもが認めた事実だった。「エジプト人は黒い」というのは、「鉛は重い」というのと同様に、それ以上の証明を必要としない事実だった。

 しかるに、ヨーロッパ系の学者は、このヘロドトスの証言を、いろいろな形で否認しつづけている。その詳細については、のちにまとめて取扱うこととして、セネガル人のディオプが調べあげた、ほかの古代人の証言のうち、典型的な2例を紹介したい。ディオプは、この問題でも20年来の論争をしている。

 ギリシャの哲学者、アリストテレス(前389?~322)は、アレクサンドル大王の家庭教師として有名である。彼は辺境、マケドニアの王子に、自分の哲人政治の理想を託した。この当時最大の文明国エジプトは弱体化していた。エジプト軍の主力は、ギリシャ人などの傭兵隊で構成されるようになっていた。エジプト人の戦士貴族たちは、いわば日本の平家の公達のように、文弱の状態にあった。そこで、アリストテレスは、『生理学』の中で、つぎのように主張する。

 「あまりに色の黒い人間は臆病となる。それが当てはまるのは、エジプト人とエチオピア人である」(『黒色人文明の先行性』、p.37)

 また、ギリシャ人の文筆家、ルキニウス(後125~190)は、『航海記』の中で、若いエジプト人について、つぎのように表現した。

 「この若者は、黒いだけでなく、唇が厚く、非常にほっそりとしている」(同前、p.37)

 この「唇が厚い」という点と、「足がほっそりとしている」という点は、近代ヨーロッパの人類学においても、いわゆるネグロイドの特徴とされている。これも重要な証言である。

 つぎには、古代人が残した物的証拠を、検討しなければならない。セネガル人のディオプは、さまざまな絵画・彫刻の例をあげている。そして、その評価の仕方についても、ヨーロッパ人自身の間で、意見の相違がみられることを指摘している。

 1783年から1785年、ディオプの表現を借りるならば、まさに黒色人奴隷制たけなわの時代に、フランスの著述家、ヴォルネイがエジプトを訪れた。彼の本『シリアとエジプトへの旅』から、ディオプはかなりの引用をしている。

 ヴォルネイは、古代エジプト人の直系とされるコプト人に会い、ギゼーの大スフィンクスを訪れ、その感想を記している。文中、ミュラートルとは、一般に、黒色人・白色人の混血を指す用語である。

 「コプト人は、みんなふくらんだ顔付で、眼ははれぼったく、鼻はつぶれ、唇は厚い。一言でいえば、ミュラートルである。わたしはこれを、気候条件によるものとして、解釈しようとした。しかし、大スフィンクスを訪れた時に、その容貌が、わたしに謎を解く鍵をあたえてくれた。その頭部は、あらゆる点からみて、黒色人(ネグル)の特徴を示しており、わたしにヘロドトスの注目すべき章句を思いださせた。……すなわち、古代エジプト人は、アフリカはえぬきの人種に属する、真の黒色人(ネグル)だったのである。その後、数世紀にわたって、ローマ人やギリシャ人の血がまじり、最初の皮膚の色の強さはうすれたものの、もとからの人種形質の刻印は保たれた、という説明が成り立つ」(『黒色人国家と文化』、p.47)   ディオプは、19世紀に派遣された、フランスの第1回調査隊の手になる大スフィンクスの線刻画を紹介している。そして、「このプロフィルは、ヘレニズム(ギリシャ)的でも、セム的でもない。これは、バントゥである。

 念のために、1834年に描かれた、F・エンゲルスのスケッチも紹介しておきたい。この角度から撮った写真が全くないのも、残念ではあるが、また、奇妙でもある。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-7-sufinkusu.jpg
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-7-sufinkusu-2.jpg
上 大スフィンクス 第1回調査隊の線刻図
下 大スフィンクス エンゲルスのスケッチ

 さらにディオプは、いわゆるネグロイドの特徴を示すファラオ像を沢山あげているが、その中の最も特徴的なものを、写真でみていただきたい。女性像についても、第18王朝、アメンホテプ3世の王妃テュイイ、もしくはこの二人の娘シトアメンものとされている頭部像がある。一般には、この像の正面の写真しか紹介されていないのだが、側面から撮影したものを発見できた。写真のように、明確な「突顎」がみられる。この特徴は、ヨーロッパ系の人類学者によると、いわゆるネクロイドの、不可欠の特徴である。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-7-dai2.jpg
第二王朝のファラオ・ジゼール

http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-7-18.jpg
第18王朝のテュイイ王妃

 ただし、シュル=カナールがつぎのように書いていることも指摘しておく必要があるだろう。

 「〈突額〉はよく〈黒色人種〉の特質といわれるが、それも案外一般的なものではない」(『黒アフリカ史』、p.51)

 つまり、エジプトの美術の人物像に、いわゆる突顎が表現されていないとしても、それだけで、そのエジプト人は黒色人種ではなかった。という主張はなりたたない。その上に、突顎のような特徴は、環境によって変化し、都会的な人口密集地帯では、消滅する傾向にある。すでに、アメリカの人類学者、クーン、ガーン、バードセルの共同研究では、つぎのような結論がでている。

 「食物生産経済の課した生活条件に応じて、まず旧世界では顎骨の小さい、骨の繊細な地中海的な顔の型式が生じ、一方、これに対応して、新世界ではとんがった顔のアメリカ・インディアンが生まれ、さらに都会ではこの顔面形式が極端な形態のまま最終的に明確化されるにいたったのである……これに反する実例はない」(『人種』、p.151)

 当然のとこながら、これに反する分類も、これに反する記述も、許されてはならない。ヨーロッパ系の人類学者は、ネグロイド形質に「突顎」が不可欠であると主張し、それが観察されない頭骨には、コーカソイド(白色人系)という分類を、当然のこととしてきた。このあやまりは、抜本的に、訂正されなければならない。

 また美術には、様式の変化、流行がある。リアリズムの時代と、極端な様式化の時代の作品とを、はっきり区別しなくてはならない。日本の江戸時代の人々が、浮世絵や役者絵のような顔をしていたわけではない。また、明治の女性は、黒田清輝の絵のような姿をしてはいなかった。

 わたしは、いわゆるネグロイド的特徴を示す古代エジプト人の画像、彫像は、リアリズム時代の作品だと判断する。そして、様式化されたファラオ像の中にも、真黒に塗られたものが多いことを、合せて指摘しておきたい。後世になって、オリエントやギリシャの影響があらわれ、そして、混血のファラオや王妃が出現した時代の作品については、全く論外である。

 さて、以上のような古代人の証言、物的証拠に対して、従来のヨーロッパ系人類学者、歴史学者は、どのような態度でのぞんだのであろうか。なんらかの科学的反証をあげたのであろうか。

次回配信は、第7章-6「近代の偽証」です。

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