週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.62 2004.11.18

[20041118]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.62
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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   第七章:ナイル河谷 

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◆(第7章-2)通商ルート ◆

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 たしかに、古代エジプトのファラオたちが、何度も、ナイル河上流方面に軍勢をすすめた事実はある。たとえば、第一王朝のジゼールは、第二急流に、勝利の記念碑を残した。歴代のファラオも、同じようなことをやっている。

 ところが、まず第一に、ファラオたちは、オリエントにも進出し、やはり勝利の記念碑を残している。つまり、勝利の記念碑を材料にして、征服とか、文化をつたえたとかいうのなら、オリエントについてもそういわなければおかしい。ヘロドトスは、エジプトのファラオが、オリエントやヨーロッパから住民をつれ帰って、奴隷にしたと書いている。当時のエジプトからみれば、オリエントやヨーロッパは、人的資源しかない未開の地であった。

 逆に、古代エジプトは、プーントの国のミルラを求めて、南方の通称ルートの確保につとめた。つまり、遠征の目的がちがう。従来のエジプト史学者、オリエント史学者は、ミルラを「沒薬」としてしか、理解しなかった。しかも、古代エジプトの歴史の最初から、唯一の通商相手の国家として記録されているプーントの国を、まともな根拠もなしに、ソマリア海岸に設定した。これでは、歴代のファラオの、ナイル河上流方面への遠征の目的が、分らなくなるのも、当然である。

 ファラオたちは、貴重な通商ルートを、掠奪型の遊牧民族の襲撃から守るために、何度も出撃したのである。

 事実、エジプトの古記録を素直によんでみれば、それ以外の解釈は成り立たない。あらゆる記録は、領土の拡張ではなく、「交易の成功」を誇らしげに報告している。そして、ミルラと雄牛は、最上の商品だった。第三王朝のアメネムハト一世は(前2000~1980)は、第三急流に進出した。そして、「交易所」をきずいた。同じ王朝第五代のファラオ、セソトリス三世は、これよりも後退し、第二急流近くに城砦をきずいた。しかし、これも「交易所」であった。

 この地点、フィラエの石碑の解釈については、本書の冒頭に紹介した。最初には、ネヘシの意味について追求したが、ここでは、碑文の内容が問題になる。「輸入のためか、または交易所で物を購入する目的……で越境する」ネヘシは「歓待される」、と明記されている。しかし、「家畜を連れてこの国境を越えてはならない」のであった。

 コルヌヴァンも、この碑文を指摘し、当時のクシュが、通商の相手として、対等に評価されていたのだと主張している。わたしは、古代エジプト人が、ネヘシを、二種類にわけて考えていたと解釈する。通商の相手と、厄介ものの遊牧民とである。

 だが、古代エジプトの文化は、クシュの地につたわった、と主張するむきもあるだろう。では、文化とはなんだろうか。また、文化交流とは、果して、一方的なものだろうか。

次回配信は、第7章-3「建築様式」です。

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