週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.56 2004.10.07

[20041007]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.56
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第六章:バントゥの王国

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◆(第6章-8)ダムと水道 ◆

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 モザンビークの西部国境地帯に、ダムや水道が石で造られていたと聞けば、やはり、おどろかずにはいられない。

 これもまた、年代などはまったくわからない。しかしわたしはすでに、大ジンバブウェのところでのべたように、こういう農耕に必要な、つまり、生活していく上で最も肝心なところから、石造技術が発達したにちがいないと考えている。

 デヴィドソンは、こう書いている。

 『階段式耕作は北部アフリカ独特のもののように思われていたが……消え失せた諸種族がリンポポ河((モザンビークと南アフリカの国境地帯))に至るまで、ケニヤ、タンガニイカ、ローデシア、モザンビックで広範囲にこれを行なっていたことが、現在では知られている』(同前、p.180)

 これらの集約農業の遺跡のうちで、現在までに発見された、最大のものは、モザンビークの西部国境地帯にある。

 このリンポポ河流域の農業遺跡は、ニーケルク、イニヤンガという地名で知られている。デヴィドソンの記述からぬきだしてみると、そこには、つぎのような大水道網、ダムの石造遺跡がある。

 「階段状構築……石造のダム、水道が非常に多く、しばしば数マイル……勾配は見事に計算されており、その技倆は精巧な機具をもつ現代の土木技師でも、必ずしも太刀打ちできるとはかぎらぬほどである。……深さは約1メートルの単なる溝……ダムはモルタルなしで自然の石を材料にうまく丈夫につくられている」(同前、p.225)

 水道は、リンポポ河の水を、耕作地に配るシステムをなしていたらしい。「数マイル」とあるのを、かりに5マイルと考えれば、それは8キロになる。日本で例をとれば、中央線の東京・東大久保間の直線距離に相当する。これが、「しばしば」ともなれば、山手線のひとまわりが加わるかもしれない。

 要所には、「重さ1トンにも達する丸石」が使ってあり、どうやって動かしたのかも分からない。実物をみた学者は、ニーケルクのダムと水道網の建設について、「ここではピラミッドの建設におとらぬ労働力が費やされた。あるいはそれ以上かもしれない」といっている。

 この巨大な農業遺跡についても、これ以上の情報はない。現在、ポルトガル領植民地モザンビークでは、南ヴェトナムと全く同様な、激しいたたかいが進行中である。解放戦線側の村民を、皆殺しにするような大事件が、やっと伝わってくるような状態では、当分は考古学的調査の可能性はないだろう。

 それだけにわたしは、何の根拠もなしに、この遺跡の建造年代を押し下げたり、過少評価にみちびくような記述には、大いに疑問を提出しておきたいのである。

 謎はまた、遺跡の年代だけにとどまらない。栽培植物の起源と伝播経路にもかかわってくる。デヴィドソンによれば、この農業遺跡から出土した、「炭化した穀物の示すところでは、彼らの作物はキビ、高粱、豆類」であった。中尾佐助の説明にしたがえば、このうち、キビとはトージンビエの誤認で、高粱とあるのは、ソルガム(モロコシ類)の誤認である。トージンビエもソルガム、豆類も、中尾佐助の説明によれば、西アフリカのサバンナ起源であった。そして、南部アフリカ一帯は、従来の学説によると、ヤムイモ文化圏のはずであった。

 しかし、南部アフリカにも、広大なサバンナ高原がひろがっているし、また、いたのである。わたしは、このあたりの栽培植物も研究しなおすべきではないかと思う。階段式の灌漑耕作も、意外に、このあたりの高原地帯、湖水地帯に発しているのかもしれない。謎は深い。

 さらに、リンポポ河のすぐ南、現在の南アフリカ共和国トランスヴァール州には、モザンビークの農業遺跡と結びつくかもしれない、興味深い遺跡があった。

 マプングブウェとよばれるこの遺跡は、絶壁に囲まれた岩山の、平らな頂上部にあった。現地のアフリカ人は、この岩山を神聖なものとして、その名を語るときは、背を向けて、畏怖の念さえ示したという。頂上に登る道はたったひとつのトンネルで、そこは岩石で封じてあった。そのために、例のゴールド・ラッシュをまぬがれたのである。

 マプングブウェの発掘結果は、ここが王家の墓所にちがいない、ということを示した。発見された23体の人骨のひとつは、約2キロもの金製細工品をともなっていた。全体の3分の1は、その足が、「渦巻きにした針金からなる100以上の飾り輪で巻かれていた。見事な細工の金メッキのいくつかも発見され、約1万2千個の飾り玉も発見された」(同前、p.217)

 このような、山頂を利用する遺跡には、要塞らしきものもあるらしい。そして、山頂の要塞と住居の遺跡の分布は、階段状構築の農業遺跡の分布と、重なり合っている。

 デヴィドソンはこう書いている。 

 「山頂の要塞と住居の存在も、同様に謎であり、至るところにみられる。それは南部ローデシアにもアンゴラにもあり、遠く南アフリカのバストランドにもある」(同前、p.181)

 アンゴラも、モザンビークと同様に、ポルトガル領植民地のままであり、同じたたかいが進行中である。「しかも、アンゴラの考古学は、石器時代にせよ鉄器時代にせよ、ほとんど完全に未知のままで残っているのである」(同前、p.251)。

 それでも、アンゴラに隣接する、現在のザイール(コンゴ)のシヤバ(カタンガ)州からは、相当に大きな王国、または帝国の存在を予想させるような、巨大な墓地の遺跡が発見されている。

 中央アフリカ史の研究者、ヴァンシナ(ベルギーのブリュッセルから、フランス語の本を出している人物だが、ルワンダ人らしい)は、この遺跡をつぎのように描写している。

 「中世あるいはおそらくさらに古く、一つの国家が、コンゴ川の水源にあたるキサレ湖の附近に存在してた。考古学者たちは、そこに、川岸に沿って幾マイルものびる墓地を発見している。死者は、彼らの容器や装飾品と共に埋葬されていた。これらの副葬品のうちには、帯や、針や、そしてすでにいわゆる『カタンガ十字』などの、銅や鉄の製品が含まれていた。『カタンガ十字』は、銅の十字で、長い間通貨として用いられていたものである」(『アフリカ史の曙』)、p.146)

 この遺跡の年代も、全く不明である。しかし、このあたりは、金、銀、銅の鉱山遺跡が、数千あるいは数万にものぼるほど散在している。かつてはカタンガ州とよばれていたが、最近のザイール(コンゴ)では植民地時代の名称をすべて廃止した。そして、昔の地名であるシャバを復活し、シャバ州とよんでいる。シャバとは、ザイール大使館に問い合わせてみたところ、銅のことであった。

 また、このシャバ州は、おそくとも16世紀以来、ルンダ帝国の中心地のひとつであった。そして、このルンダ帝国は、南はローデシアから、北は、ルワンダまでを領地としていた。ヴァンシナは、「幾マイル」、つまり、数キロにもわたる巨大な王墓をきづいた国家は、このルンダ帝国よりも、かなり前にあったものだと説明している。ともかく、相当に古いことはたしかだ。

 では、この国家は、アフリカ大陸の外には、全く知られていなかったのであろうか。シャバという言葉は、いつごろからつかわれていたのであろうか。その名称に類した言葉を、古代人は、つたえていないだろうか。

次回配信は、第6章-9「シバの女王」です。

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封印『マルコポーロ』の「松本サリン事件」/
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