週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.51 2004.09.02

[20040902]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.51
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第六章:バントゥの王国

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◆(第6章-3)ルヴェンゾリ大爆発 ◆

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 ルヴェンゾリ山の大爆発で、溶岩流と火山灰におおわれた広大な地帯の、一番南のはずれから、新石器文化の特徴を明確に示す遺跡が発掘され、イシャンゴ文明と名付けられた。

 火山灰が、熱帯アフリカ特有の、土壌の分解、地層の崩壊をふせいでいた。そのため、先史文化のすべての段階が、各地層にわかれて発見された。カーボンテストも成功し、イシャゴの新石器文明は、紀元前6000年と年代づけられた。

 これだけでも、すでに、アフリカの新石器文化に関する、従来のすべての学説は、完全に破綻する。イギリス人の考古学者、ホィーラーなどは、すべての文明の起源をオリエントに求め、アフリカ内陸に新石器文化が到着したのは、紀元前3000年頃だ、と書いていた。差引き、3000年もの、ぼう大な誤差がでてきたわけである。

 イシャンゴ文明の出土品は、石臼、粉砕用石器(食料をくだく)、装飾用具などの磨製石器であった。また、早くから骨製の、一段または二段の逆アゴつきの銛、ピンなどが使用されており、場所もアルバート湖畔であるところから、漁民の文化と認められている。しかし、石臼、粉砕用石器は、植物性食料のためのものである。それゆえ、農耕をしていなかったとはいえない。おそらく、男たちは漁撈、女たちは農耕、という社会だったのではないだろうか。

 ルヴェンゾリのふもとには、まだまだ秘密がかくされているにちがいない。しかし、イシャンゴ文明の発見は、ヴィクトリア湖をはさんで、丁度対岸にある、ナクル文明と結びつけられた。ナクルは、ケニア高原の「白人高地(ホワイト・ハイランド)」とよばれる、肥沃な農業地帯の、一都市のよび名である。

 ナクル文明は、これまで、年代の決定ができなかったようだが、イシャンゴ文明の発見によって、それと同時代だと考えられるようになった。この意義もまた、高く評価されなければならないだろう。

 ナクル文明もやはり、明確な新石器文化の要素をもっており、コルヌヴァンの表現によれば、「石のうつわ、乳鉢、とりわけ豊富な土器」を出土した。狩猟用具もあったらしく、コルヌヴァンは、「狩猟・採集民の文化」とよんでいる。しかし、わたしはそうは思わない。新石器の特徴はやはり、農耕文化以後に出現したものであろう。狩猟動物が沢山いるところでは、どんな文化段階になろうと、男たちは狩猟をやめるものではない。

 しかも、このナクル文明をきずいた人々は、遺骨を残していた。これがまた、大変に興味深い。調査したのは、ケニアに住みついている、有名なイギリス人の考古学者、リーキーだが、彼は、いくつかの頭骨の、原型を回復することに成功した。ナクル人の大部分は、背が高く、長頭で、狭い顔立ちであった。ところが、一部の人々は、背が低く、短頭で、巾の広い顔立ちであり、現存の狩猟民であるサン民族(ブッシュマン)に似ていた。

 つまり、同一地点に、同時代に、全くちがう人種的特徴をもつ人々が、一緒に暮していたことになる。わたしは、この事実を、農耕牧畜民と、狩猟民との協力関係があったことの証明、と解釈する。では、ナクル文明とイシャンゴ文明は、その後、どういう発展をみせたのだろうか。それを考えるために、ナイルのみなもとから、はるか南方にかけて、沢山の遺跡があることを、つづけて紹介したい。

 そこには、古城もあれば、道路もあり、水道もある。巨大な王墓もある。それらはいつごろつくられたものだろうか。また、だれがつくったものだろうか。

次回配信は、第6章-4「中世の古城」です。

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