週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.43 2004.07.08

[20040708]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.43
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第五章:巨石文化の影

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◆(第5章-3)海神ポセイドン ◆

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 クレーテ島を中心に、紀元前3000年から栄えたミュケナイ文明の建設者は、だれであろうか。彼らについて、イギリス人のキトーは、つぎのように書いている。

 「彼らは自らの彫像を残しており、これは彼らが北アフリカに起源をもつ、ほっそりとした、肌の黒い、黒髪の『地中海』の血統であったことを明らかにしている。この民族、その中のあるものが人のいないクレーテ島へ到着した時には、すでに旧石器時代を過ぎていた。また、彼らの中の別のものがさらに北上してギリシャの各地に定住したのだろうか? これはわれわれの知り得ないものである」(『ギリシャ人』、p.24)

 ここでは若干、用語に異議をとなえないわけにはいかない。「北アフリカに起源」ということは、アフリカ大陸起源ということに他ならない。当時のサハラは、まだ乾燥しきっていなかった。アフリカ大陸の南北は、完全につながっていた。そして、「地中海」、もしくは「地中海人」といういいまわしも、ヨーロッパ系の学者の慣用句にすぎない。クレーテ島の人々はアフリカからきた、そして、アフリカ人だった。

 彼らはまた、突如として北アフリカ海岸で、舟を仕立てて、地中海を渡ったのだろうか。わたしはそうではないと思う。

 たとえば、サハラの先史美術には、「藤で作った3隻の丸木船」(『タッシリ遺跡』、p.69)が描かれていた。そして、湿潤期のサハラ周辺には、大きな湖もあり、地中海に注ぐ大河があったことはたしかだ。つまり、サハラの高原と地中海とは、水路でつながっていた。

 サハラの住民、つまり先史美術が証明するような、黒色のアフリカ人は、早くからこの水路によって、地中海方面へと進出したにちがいない。

 ところで、アフリカからクレーテ島への移住がたしかだとすると、もうひとつの謎が浮び上がってくる。それは、例のサハラの縦断ルートの各所に描かれたウマと戦車の絵の問題である。

 美術史家の木村重信は、このウマの絵の様式について、つぎのように書いている。

 「アンリ・ロートは、四肢を前後に長く伸ばして疾駆する馬の特異な表現に注目して、そのスタイルが、エジプト様式よりも、むしろミュケナイ美術の様式に近いことを指摘する」(『アフリカ美術深険』、p.82)

 どういうことかというと、ほとんどの学者が最初から、サハラのウマは、オリエントからもたらされたと主張してきた。ところが、オリエントからサハラに到達するには、エジプトを通らなくてはならない。一方、サハラの後代の岩壁画を、エジプトの影響で説明しようとする傾向、つまり、サハラ美術の創造性を否定しようとする傾向には、ぬきがたいものがある。そこで、サハラのウマも、ウマの絵の様式も、オリエントからエジプトを通ってやってきたのだという主張が通用してきた。

 これに対して、フランス人のロートは、ミュケナイ美術からの影響、そして、エ-ゲ海からアフリカへのウマと人間の移住という考えを提出し、ウマの絵の様式の類似を、その根拠としているわけである。

 しかし、このロートの説明、つまり、クレーテ島からアフリカ大陸への移住説には、同じフランス人のシュレ=カナールも疑問を表明している。そしてわたしは、はっきりとその逆だと思う。人もウマも、美術様式も、サハラからクレーテ島へ渡ったのだと思う。その証拠には、クレーテ島などのミュケナイ美術には、アフリカの動物が沢山でてくる。人々は、おそらくそれらの動物もつれていったのであろうし、アフリカ大陸をなつかしむ気持が、あの濃密な色彩の美術に表現されたのだと思う。農作物の研究は発見できなかったが、これも決め手になるだろう。

 また、この事実との関係で面白いのは、ギリシャ人の海神ポセイドン信仰であろう。ポセイドンは、海神であると同時に、ウマの神格化でもあった。ヘロドトスは、ギリシャの神々のほとんどすべての系譜を、エジプトに求めている。ところが、ポセイドンに当る神は、エジプトの神々の中にはいない。そこで彼は、リビア、つまり、この場合、北アフリカからサハラにかけてのアフリカ大陸に、ポセイドンの起源を求めている。ヘロドトスは、こう書いている。

 「ギリシャ人がポセイドンを識ったのはリビア人からである。本来ポセイドンなる神をもっている民族はリビア人以外にはなく、リビア人は昔からかわらずこの神を尊崇しているのである」(『歴史』、2巻、p.50)

 すでに、家畜ウマの起源のところでのべたように、「ウマはインド・ヨーロッパ語とともに古い」という固定観念があった。

 ところが、いわゆるインド・ヨーロッパ系の言語を使用する民族の中で最古参の古代ギリシャ人自身が、ウマの信仰の起源を、アフリカに求めている。これは、従来のように、ウマの起源をオリエント周辺に求める学者には、全く説明しきれない現象であろう。

 わたしはすでに、ウマの飼育の起源を、アフリカの熱帯隆雨林地帯に想定したから、このヘロドトスの説明は、まことに真相をついていると思う。また、ウマと一緒に地中海から上陸してきたアフリカ人の戦士の記憶が、上半身が人間で下半身がウマという、神話的映像として残ったと考えてもよいだろう。

 もちろんこのことは、直接的に、ギリシャ人がすべてアフリカ出身だということには結びつかない。ギリシャ人もローマ人も、古代の「市民」という範囲で考えるなら、古くからあった農耕文明の上に、征服者としてのりこんだ民族である。しかし、その前に栄えていた幾多の文化・文明の歴史を忘れてよいものではない。また、詳論はさけるが、ギリシャ・ローマ人自身、みずからの姿を、黒い巻き毛、褐色の肌に描いていた。彼らも決して、北方のブロンド人種地帯からきた民族ではない。

 さらに、地中海をつきぬけて、大西洋にでてみよう。ブリテン諸島にも、アフリカ大陸の文化が流れこんでいた。

次回配信は、第5章-4「ストーン・ヘンジ」です。

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