週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.42 2004.07.01

[20040701]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.42
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第五章:巨石文化の影

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◆(第5章-2)タルシシの船隊 ◆

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 タルシシ(タルシシュ)は、オリエント史学者にとっては、謎の国である。いまだに、タルシシとよばれ、金、銀、銅、鉄、錫、象牙などを産する豊かな古代国家の位置についての定説はない。

 旧約聖書には、フェニキア人(ツロとよばれた)について、何度も長い章句がでてくる。ソロモンの栄華は、フェニキア人の貿易なしには成立しえなかった。そして、フェニキア人が金属類を求めたところは、タルシシとよばれていた。タルシシには、大きな船が何度も渡っていった。しかし、フェニキア人は、タルシシの場所を秘密にしていた。それは、彼らの独占権を守るための当然の行為であった。

 そこで、オリエント史学者のキュリカンの表現を借りると、「このタルシシュという神秘的な場所の位置についてある混乱がおこってきた。ソロモン以後の時代に属する聖書の筆者たちは、タルシシュの場所については全く漠然とした考えを抱いていたにすぎない」。そして、ヨーロッパ系の歴史学者は、彼らが知っている地中海の周辺に、タルシシに当る国を探し求めた。

 タルシシと似た名前の国は、たしかに地中海周辺にもあった。イベリア半島の南端に、タルテッソスとよばれた古代王国があった。しかし、このタルテッソスが、フェニキア人と貿易をしていたとすれば、フェニキア人から買ったはずの象牙細工や青銅製品が、発見されなくてはならない。ところが、沢山の出土品がありながら、フェニキア人独得の商品がもたらされた証拠は、紀元前7世紀にしかさかのぼりえない。

 ソロモンは、紀元前10世紀の王である。このソロモンとむすびつけて語られているタルシシは、それゆえ、イベリア半島南端のタルテッソスではありえない。しかも、奇妙なことには、現在のサルディニア島(イタリア)から、タルシシと明記された石碑がでてきた。これはどういう意味だろうか。

 わたしは、タルシシというのは、フェニキアと同様に、ある民族のよび名だと考えている。たとえばローマは、カルタゴとたたかったわけだが、この戦争を、ポエニ戦争、つまり、フェニキア人との戦争とよんでいた。日本にも、ヤマトとか、クマソ、クマノといった地名がやたらに沢山あるが、これはある系列の民族の移住、発展のあとを示すものだ。山があるからヤマトなのではなくて、ヤマトとよばれる民族のよび名が、地名になったものである。

 つまり、わたしは、イベリア半島にも、サルディニア島にも、タルシシ人の植民地ができたと考える。では、タルシシ人の本拠地はどこだろうか。

 旧約聖書は、ソロモン王の栄華と権勢を語り、つぎのように伝えている。

 「王が海にタルシシの船隊を所有して、……タルシシの船隊に3年に1度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせた」(『列王紀上』、10章)

 つまり、この章句を素直によむならば、タルシシの船隊は、ゾウ、サル、クジャクがいるところにおもむいたのである。ヨーロッパ系の学者の中には、後世の記録に異国趣味がとりいれられたという主張をするものもいる。なぜかというと、これらの動物群は、イベリア半島あたりにはいないからだ。しかし、そういう都合のいい解釈をするのなら、最初から、旧約聖書を引き合いにだしてはならないだろう。

 さて、クジャクがいるのは、インドとセイロンだけである。しかし、これだけでは決定的な材料にはならない。インド洋の貿易船は、インドにもアフリカ東海岸にも、つづけて航海したかもしれない。しかも、途中には沢山の中継貿易業者がいた。つまり、直接に現地へいけば安く仕入れられる商品を、都合によっては途中で、運賃こみの値段で仕入れたにちがいない。インドにいった船隊は、帰途の中継地点で、東アフリカの特産品もつみこんだであろう。そして、東アフリカにいった船隊は、その逆のことをしたであろう。

 しかも、決定的な決め手は、まず、金、銀である。インドは、全や銀の特産地ではなかった。そして、古代の証拠はまだ不足しているにしても、中世にはたしかに、東アフリカが、金、銀、および象牙の特産地であった。さらに、アラブ人は、東アフリカ一帯を、ザンジ人、ザンジの国とよびつづけてきたこと、そこには現在もザンジバル島があることを指摘したい。

 タ行とザ行は容易にいれかわる。また、ラ行(この場合はアール)ほど不安定な発音はない。タルシシ、ザルシ、ザンジである。わたしには、ヨーロッパ系の学者が、こんなに明確な類似を無視し、しかも、何千年にもわたる東アフリカ潅岸の貿易の歴史を、タルシシと結びつけて考えないことの方が、かえって不思議である。視点さえかえれば、タルシシは、まったく謎の国などではない。

 また、フェニキア人の貿易については、青銅製品にスポットが当りすぎているが、彼らは、鉄も、その他の金属も取り扱っていた。むしろ、鉄はつねに登場している。たとえばエゼキエル書には、「タルシシは……銀、鉄、すず……ダマスコは……銑鉄」(27章)、といった具合に、鉄の状態まで書きわけてあり、かえって、銅や青銅が含まれていないこともある。

 それゆえ、フェニキア人といえば地中海、そして青銅器の独古販売といったイメージは、後世の歴史家によって、つくりだされたものといえる。また、青銅の普及は、鉄器の発明よりのちのことだと、技術者、技術史家がいっている。この点についての説明は省くが、わたしも、その考えに賛成である。

 青銅はしかも、錫がなければつくれず、錫鉱石の産地はかぎられていた。そして、当然のことながら、錫がないところで、錫の利用法が発明されるはずはない。オリエントや地中海周辺で青銅が発明されたと主張するヨーロッパ系の学者は、わずかに、イベリア半島やブリテン諸島に錫の鉱山があったとつけ加えるだけである。しかし、このあたりの鉱山開発は、のちのことにすぎない。錫が大量にあったのは、やはり、アフリカ大陸であった。ザンジ(タルシシ)の錫によってこそ、容易に鋳物にできる青銅の普及は、可能になったのである。もちろん、アフリカ大陸には銅山も沢山あった。

 フェニキア人はまた、ポエニとよばれていた。わたしはこれも、古代エジプト語の鉄、ベニーペに結びつける。彼らは鉄商人、鉄屋とよばれたのではなかろうか。そして、旧約聖書の、ツロという呼び名は、フェニキア人の都市、テュルスに由来するとされている。これも、本来はタルシシ人の居住地のことだったのではないだろうか。

 さて、地中海といえば、いかにもヨーロッパ諸国の内海のように表現されている場合が多い。しかし、この海は、アフリカ大陸の北の海でもあった。地中海のさらに北方への、アフリカ人の進出はみられなかったのであろうか。

次回配信は、第5章-3「海神ポセイドン」です。

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