週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.37 2004.05.27

[20040527]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.37
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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 第四章:鉄鍛冶師のカースト

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◆(第4章-6)土師部の女 ◆

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 1831年に、現在のルワンダからザイール、ローデシアにひろがるルンダ帝国を訪れたポルトガルの軍人、アントニオ・ガミット大尉は、このあたりでは鉄鉱石が、「地表に沢山あって掘り出す必要がないほどである」(『アフリカの過去』、p.242 )、という報告をした。これはどういうことであろうか。地表に、鉱石がころがっていたのであろうか。

 この謎の手掛かりは、もともとは地理学者であるシュレ=カナールの『黒アフリカ史』の中にあった。彼の研究範囲は西アフリカの旧フランス領植民地を中心としているのだが、そこには、「ラテライト性の露出鉱」がたくさんあった。もちろん、鉄鉱石のことであり、シュレ=カナールはこれを、アフリカで製鉄法が発明されるための有利な条件だと指摘している。また、このラテライト性といわれる土壌は、アフリカ大陸全体にひろがっている。では、ラテライトとはなんだろうか。

 ラテライトは、熱帯地方特有の分解土壌のことであるが、シュレ=カナールによると、最近では、「古鉄土」という総称がつかわれている。この中には、酸化鉄分の含有量が非常に高いものが多く、砂状、礫状、粘土状、岩盤状などの形をとっている。砂の状態のものは、砂鉄として採集されるし、礫、岩盤状のものは、鉱石として採掘される。

 なぜこういう「古鉄土」がアフリカ大陸に多いかといえば、やはり自然環境に特殊性がある。照りつける太陽と、豪雨とが、鉄分を含む岩山を酸化し、破壊し、流出させる。いったん固まった「古鉄土」も、また同じ目に会う。これが繰り返されると、砂金や砂鉄の採集と同じことが、自然に起きる。比重の重い金属は下に沈み、分離されてしまう。そして、表面の土砂が流されると、露出鉱となる。

 ラテライト性の鉄鉱石は、それゆえ、アフリカ大陸の平野部にいくらでもある。山岳地帯に採鉱師がいく必要はなかった。こんな有利な条件がアフリカ大陸にはあった。しかも、自然に起きた金属の沈澱物の中には、マンガン、ニッケル、コバルトなどの重金属が含まれていたので、最初から特殊合金鋼ができた。アントニオ・ガミットは、「この鉄は熱いうちは鉛のようにのびやすく、またそのように割れないが、冷えると鋼鉄のようにかたい」、と報告していた。

 一般には、鉄の本格的利用について、浸炭法(炭と一緒に焼いて炭素をしみこませる)による炭素鋼、そして焼きいれ法の発見までは、鉄器は普及しなかったと説明されている。しかし、アフリカ大陸では、その発明を待つ必要がなかった。

 アフリカ人は、特殊鋼をやすやすとつくりだした。そして、東海岸まわりで、インドや地中海方面にも輸出していた。デヴィドソンも、「ソファラの鉄は、その豊富なこと、良質なことで、インドの鉄より有名」だったとしている。ソファラは、現在のモザンビーク海岸に古くから栄えた貿易港のことである。また、12世紀のアラブ人は、このソファラの鉄がインドで高く売れる、と書いていた。[下図参照]

http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-n.gif
東アフリカ沿岸の貿易ルート

 しかしわたしは、もっと意外なことを推測している。というのは、この自然条件の下で、だれが鉄の製法を発見したか、ということである。わたしはこれも女たちだ、と考えている。また一般には、鉄鍛冶師が突然出現したかのように説明されているようだが、これにも、必然的な過程があるにちがいない。

 まず、アフリカの農耕民の社会では、技術者の最上位のカーストは、鉄鍛冶師とされている。ところが、シュレ=カナールの研究によると、ほとんどどこでも、このカーストの女性は陶工、または土器製作者である。

 しかも、アントニオ・ガミットの報告によると、彼は、「採鉱中のアフリカ人の女を見たい」と希望した。だが、「この仕事は実際にそれをしている者だけが見ることを許されていて、そうでないとこの金属が見失なわれるという迷信」があって、その希望をことわられたのである。

 ところで、明らかに鉄器よりも、土器の方が先に発明されている。ということは、土器をつくっていた女たちが、鉄の製法を発見し、男たちに力仕事、つまり加工作業を手伝わせたとも考えられる。その鍵になるものは、ラテライト、または「古鉄土」のもうひとつの特殊性である。つまり、「古鉄土」は粘土状でも存在する。そして、土器の原料と同じ形で、地表にあった。この条件が決定的なものではなかろうか。

 そして、もちろん、アフリカ人は早くから土器をつくっていた。紀元前6000年のケニア高原の遺跡について、コルヌヴァンは、「とりわけ豊富な土器」という表現さえ使っている。

 では、どういうことをしているうちに、鉄の製法が発見されただろうか。偶然だろうか。わたしは、これも必然的な結果として考えている。なぜなら、土器の製作には、すでに500~700度C以上の高温が必要であったし、そこには、さまざまな実験のあとがみられるからである。たとえば、手元の百科事典にも、つぎのように書いてある。

「土器は一ケ所の粘士で焼成したこともあったが、数ケ所の粘土をまぜ、粘着力の強いものとし、さらに焼成のさいの亀裂を防ぐため、石英や長石などの砂粒をまぜたりしている。貝殻・滑石・石英の粉末をつくってまぜたもの、植物繊維を混入したもの、サンドイッチ状に2枚の薄い粘土板の間に植物繊維などをはさんだものなどもある」(『大日本百科辞典』、土器)

 実験には当然、多くの失敗例がある。古鉄土性の粘土が多い地方では、土器製作過程で海綿鉄の塊まりが得られるという可能性は、充分に考えられる。逆に、よくいわれる例だが、カマドの積み石や焚火の下の地面に、鉱石がまじっていて、それが溶けて人目につくという可能性は、非常にとぼしい。料理用の火の温度は、はるかに低いのである。

 長い間、土器をつくっていた女たちは、その上に、実験的訓練を経ていたし、出来上りのよさ、色彩を競いあったにちがいない。女たちの研究心は旺盛であった。奇妙な黒い鉄の塊まりの利用方法に気づくのも、人一倍早かったにちがいない。

 さらに、発見された最初の鉄塊で、何がつくられたか、ということも考えなくてはならない。歴史学者は、刀剣類に重点を置く傾向がある。しかし、石器と同様に、金属器も最初は生産用用具、とくに農耕用具として開発されたと考えるのが、本筋であろう。

 コルヌヴァンによれば、南方アフリカのサンゴアン様式にはじまる石器の系列には、一貫して、「木工に適した、ツルハシ、タガネ、ノミ」のたぐいがみられた。ツルハシは、木製の掘り棒とともに、ヤムなどの採集につかわれたのであろう。タガネやノミは、もしかすると、ヤシの実に穴をあける道具だったのかもしれない。わたしは、最初の鉄塊が、この種の道具にきたえ上げられたと考える。

 では、このような土器製作者による鉄器製作、つまり、土師部と鍛冶師の兼業は、ほかの大陸にも、痕跡をとどめているであろうか。

 まず、旧約聖書には何ケ所も、粘土と金属とが一緒に並べて書いてある。ギリシャや中国の哲学者は、万物を、「土(地)、水、火、風」の要素に分解しようと試みた。金属は、土の一種にすぎなかった。また、それ以外には考えられなかった。

 日本ではどうだろうか。土師部は、土器、ハニワの製作者だと説明されている。しかし、アカハニという種類には、赤い色の酸化鉄分が含まれており、すでに、鉄鍛冶師と結びつけて考えている学者もいる。わたしは、土師(ハジ)が、鍛冶(カジ)にかわったのだと思う、土器、陶器、磁器については、中国、朝鮮から進んだ技術を持つ陶工が移住してきたので、従来の土師は、鍛冶に専念するようになったのではないだろうか。

 また、鉄とシャーマニズム(呪術的な古代宗教)の結びつきは、ひろく認められている。そして、日本のシャーマニズムは、トルコ、モンゴル系の由来で説明されている場合が多い。

 ところが、アフリカでも、鍛冶師のカーストは、呪術師と医者を兼ねている。やはり、シャーマンである。わたしは、日本のイネ作農耕民が、東南アジアまわりで、アフリカのシャーマニズムを伴なってきたと考えてもよいと思う。最近の新聞報道によれば、タイで、紀元前3000年頃の青銅器文化の遺跡が、発掘されている。むしろ、東南アジアの金属文化の方が、中国やモンゴル草原よりも、早くから発達していた可能性がある。当然、鉄器文化も早かったであろう。日本の鉄器文化とシャーマニズムは、アフリカ大陸に由来しているのかもしれない。

 ついでながら、女王ヒミコは、シャーマンであった。つまり、わたしの考えでは、女王ヒミコも、アフリカの鍛冶師、または土師部の女の系譜に属することになる。

 さて、さきに、紀元前2300年頃と推定される鉄の短剣の例を紹介した。この短剣には、ニッケル分などが含まれていた。果して、隕鉄を利用したものであろうか。それとも、アフリカの「古鉄土」による製品だろうか。

 わたしは、この短剣も、アフリカ大陸に由来すると考える。もちろん、まだ決定しようはない。だが、隕鉄の利用、つまり、自然にころがっていた鉄塊の利用、という発想には、いささか注意を要する問題点がある。

 鉄はやはり、土の中から、火によってきたえあげられ、火によってのみ出現するものであった。それ故にこそ神秘性、魔力を人々に覚えさせた。アフリカの神話には、火が天から降ってきたというのもある。「天の金属」とは、この思想に由来するものかもしれない。そして、火によって土を鉄に変えるわざは、土器づくりとともに、化学の系列に含めなくてはならないだろう。のちにこの系列は、アルケミア、ケミストリーにつながっていく。人々は、火によって新しい金属を得ようとしはしめた。

 大地から、新しい性質の物質をえらびだし、火によって加工すること、支配すること、これは無機物の世界への支配力を、人間が手にいれたことを意味する。農耕・牧畜が、有機物の世界への支配を意味しているとすれば、ここにまた、新しい分野が開拓されたことになる。この契機としても、鉄の発明は重要である。

 では、アフリカ大陸に、早期からの鉄の利用を示すような証拠は、どれだけ出ているのだろうか。

次回配信は、第4章-7「鉱山遺跡」です。

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