週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.29 2004.04.01

[20040401]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.29
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第三章:さまよえる聖獣 

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◆(第3章-6)神話の崩壊 ◆

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 さて、アフリカ大陸の方のイメージ・アップをした上で、オリエント起源説の問題点を追求してみよう。つぎの地図を参照しながら、よんでいただきたい。

(地図地図地図地図地図イラン高原がハゲてる地図)
(^_^;)
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-l.gif

 ウマのオリエント、またはユーラシア内陸起源説は、これまで、当然のことのように主張されてきた。決定的な定説として取り扱われてきた。ところが、そこにはウシのオリエント起源説の場合よりも、もっと鮮明な形で、従来の学説の破綻が見受けられる。

 まず最初の説によれば、アフリカにウマがもたらされたのは、オリエントからヒクソス(古代エジプト語で外国人の君主の意とされている)が侵入した時だとされていた。ヒクソスの軍勢の勝利の原因も、馬にひかせる二輪戦車の威力によるものとされてきた。ところが、それにしては奇妙な事実が明らかになった。美術史学著の木村重信は、その間の事情をつぎのように書いている。

「当時の絵画や浮彫を調べてみると、ヒクソス人がナイル・デルタで支配権を確立した前18世紀には、ヒクソスの兵士は徒歩で戦闘しており、馬や戦車は描かれていない」(『アフリカ美術探険』、p.80)

 つまり、ヒクソスによるウマの伝来説には、何らの証拠もなかったのである。ウマはオリエント方面で飼育されはじめたという仮説的主張が、エジプトの古記録によるヒクソスの侵入の事実と結びつけられ、現代風の説明をあたえられた。つまり、強力な新兵器の開発こそが勝利への道であるという死の商人たちの論理に、むすびつけられたわけである。

 もうひとつの有力な学説は、現在のトルコにあったヒッタイト王国に、ウマの起源を求めていた。ヒッタイトの言語は、すこし特殊な文法をもっていたが、インド・ヨーロッパ語族の古い型のものとされている。それゆえ、ヨーロッパ系の学者は、この国の歴史に特別の関心をよせている。インド・ヨーロッパ語族[注]の言語が使用された国家としては、最古のものだからである。この王国は、前16世紀に興隆し、15世紀にはオリエントに覇をとなえる帝国と化した。前14世紀には、エジプトに戦いを挑み、こののち、平等の資格で媾和条約を結んだ。

注:現在では「語族」に分ける議論そのものに矛盾が続出して崩壊し、欧米中心主義の似非学問として批判されている。

 ヨーロッパの言語学者たちは、一方、インド・ヨーロッパ語のウマのよび名が、その発音の祖型を、サンスクリット語の「アスヴァ」にまで溯り得るという学説を立てた。そして、インド・ヨーロッパ語族の言語を使用する民族が、いちばん最初からウマを飼っていたのであり、ウマとともに四方にひろがったのだと主張しはじめた。

 そのため、ヒッタイト王国の歴史を再現しようとするヨーロッパ系の学者は、その言語学的な推測を、「定説」として取り扱ってきた。ある歴史書には、まさに、軍馬はいななき、戦車は走るといったような、ヒッタイト王国興隆史が、生々しく語られている。ところが、こういう説がとなえられはしめたころには、ヒッタイト語そのものの研究は、まだ充分ではなかったのである。

 やがて、ヒッタイトの表音文字が解読された。ウマは、「アスウァ」とよばれていた。そして、このよび名は、隣国のミタンニ王国の言語から取り入れたものであると判断された。ウマのよび名だけでなく、ウマの飼育・調教について解説した粘土板が発見され、それらの用語も、ミタンニ語からの借用であり、実際にはミタンニ人の調教師が、やとわれていたこともわかってきた。

 ミタンニ人は、言語の面からみても、考古学的発掘の結果からみても、ヒッタイト人よりあとからイラン高原をくだり、チグリス・ユーフラテス両河のほとりに建国したとされている。だから、ヒッタイト人は、最初はウマを持たずにトルコ半島に進出し、そののち、ミタンニ人からウマをもらったという結論がでてきたわけである。

 こうなってくると、インド・ヨーロッパ語を使用する遊牧民族が、イラン高原あたりで、ウマを飼いはじめたと仮定しても、それは、ヒッタイト人の分離以後のことにすぎない。

 ともかく、オリエント史学者の岸本通夫は、前述のウマのよび名「アスウァ」の研究にもとづいて、従来の「定説」を批判し、つぎのように書いている。

 「前世紀以来の定説……『馬はインド・ヨーロッパ語とともに古い』とのインド・ヨーロッパ語学者の固定観念に重大な修正を加える必要のあることを意味するであろう」(『ヒッタイト史の諸問題』、p.154)

 さて、ミタンニ語の「アスウァ」と、サンスクリット語の「アスヴァ」とは、たしかに非常に近い関係にある。そして、岸本通夫は、サンスクリット語、つまりイラン高原に近いところにいた民族のウマのよび名である「アスヴァ」から、ミタンニ語の「アスウァ」が地方形としてわかれたのではないか、と主張している。しかし、これは、ウマのイラン高原起源の仮説(岸本通夫はこの説に立っている)を認めた上での、もうひとつの説明方法でしかない。

 ミタンニ王国の本拠地をはさんで、イラン高原と真反対には、アラビア半島がある。そして、現在のアラブ語では、ウマを、「フウッスアン」とよんでいる。もしかすると、こちらの方が祖型にちかいのではなかろうか。つまり、アラビア半島から、オリエントヘのウマの供給が行なわれたのではないだろうか。その手掛りになるようなものは、何か発見されてはいないだろうか。

次回配信は、第3章-6「森林の野生ウマ」です。

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