週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.25 2004.03.04

[20040304]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.25
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第三章:さまよえる聖獣 

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◆(第3章-2)サハラの野牛 ◆

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 コルヌヴァンがとなえている牧畜文化のサハラ起源説は、現在までのところ、唯一のアフリカ大陸起源説である。

 6000頭以上もの家畜ウシ、黒色の牧人、これまではアフリカ大陸にいなかったものと主張されつづけてきた野牛、つまり家畜ウシの野生種、この重要な証拠物件の絵画記録が、数十世紀もの間、沙漠と化した山塊の谷間に眠っていた。そして、サハラの牧畜文化の繁栄を物語るこの壮大な絵巻物に匹敵するものは、世界中のどこを探しても見当らない。牧畜文化のサハラ起源説は、出るべくして出たのであって、それ以前の諸説を圧倒している。

 しかし、わたしはこのサハラを、ひとつの橋頭堡として位置づけたい。これまでにのべてきた農耕文化の起源地の求め方、牧畜文化の成立要件についての考え方にもとづいて、わたしはさらに南方、熱帯隆雨林周辺に、最初の出発点を置く。そして、わたしの論拠は、以下、従来の研究史の誤りを指摘しつつ、明らかにしていきたい。そこには、裏返しの形で、わたしが必要とする論理がころがっている。

 ヨーロッパ系の学者によってはじめられた研究のはじめには、ヨーロッパまたユーラシア(ヨーロッパとアジア)内陸草原が重視された。そして、北方草原の狩猟民が、直接的に遊牧民族に変身したと主張された。この種の説は、考古学的な調査によってくつがえり、全く論拠を失っているのだが、いまだに、何の説明もないままに、日本の文化人類学者が書いた本などに散見する。おそらく、ヨーロッパ系の学者の説をそのまま、引きうつしたものであろう。

 ヨーロッパ系の学者が、このユーラシア内陸起源説にこだわるのは、神話的発想にほかならない。彼らの歴史は、遊牧民族の移住にはじまっており、ウシ・ヤギ・ヒツジ・ウマが聖獣とされていたのである。

 また、この種の説は、狩猟文化から牧畜(遊牧)文化への直接の移行、という考え方にたっている。つまり、狩猟者たる男たちが、狩猟動物を飼い馴らしたのだと主張している。しかも、最初から成獣の群れを、ひとまとめに追い立てて、遊牧の家畜群に仕立て上げたのだと説明している。この点については、すでにわたしの考え方をのべておいたので、再論はしない。

 つぎに、オリエント起源説の典型的な問題点を、ウシの問題にしぼって紹介する。まず、古代エジプトには、非常に早くから、家畜ウシの存在がみとめられる。ところが、ヨーロッパ系の学者は、やっきとなってエジプト、つまりアフリカ大陸起源の可能性を否定してきた。そして、その唯一の論拠は、つぎに示すように、アフリカ大陸には家畜ウシの野生種がいない、ということであった。

 たとえば、ドイツ人の農学者、ケルレルは、1919年にこう書いている。 「亜弗利加本土に於ては馴化された牛は同様非常に早くから存在していた事が証明される。その絵画に現わされたものは、他の家畜と一緒に、古代埃及のファラオ王朝時代のすぐ前の旧ネガダー王朝に既に見られる。……《ところが》、家牛は亜弗利加本土に発生した、ということは否定されねばならぬ。なぜかといえば、これに属する野生形態がないからである。従ってこれは他所から、詳しくいえば亜細亜から、移入せられた」(『家畜系統史』、p.127~128)

 このケルレルの説明自体、どこが「詳し」いのか全くわからないのであるが、ともかく、この説の唯一の論拠がくずれてしまった。サハラの先史美術は、その初期の狩猟の有様を描きだしており、「一群の射手が一角で牛の群れを襲おうとしている」、という状景を、見事な絵巻物として記録していた。これは当然、野生ウシであった。サハラの黒色人の画家たちはまた、さまざまな動物の特徴点を、正確にとらえていた。この野生ウシは、明らかに家畜ウシの野生種であると認められた。これにはいかなる反論の余地もなかった。

 というのはすでに、古代エジプトの歴代のファラオが、サハラに野牛狩りをしにいったとか、ヘロドトスが北アフリカで野牛をみたとかいう、立派な文字記録も残っていた。ところが、これまでのヨーロッパ系の学者は、あれはアフリカ水牛ではないか、などという口実を設けて、これらの古代人の証言を、否認しつづけてきた。サハラ先史美術は、ついにそのような口実の壁をうちやぶってしまった。そして、古代人の証言も、採用されざるをえなくなってきた。

 ではこれで、牧畜文化のオリエントまたはユーラシア起源説は鳴りをひそめたかというと、なかなかそうはいかない。

 すでに、オオムギ・コムギの項で紹介したイギリス人、クラークとピゴットは、新しい三段論法をくみ立てている。彼らは、アフリカ大陸に「野生の牛は生息していた」、という事実は認める。しかし、ウシは、オリエントの農業地帯の「証拠では馴化された最初の動物群のなかには含まれていなかったことが示唆されている」、つまりウシの家畜化はあとの段階だ、と主張する。

 彼らの説によれば、最初の、または第一段階の飼育動物は、ヤギ・ヒツジでなければならない。そしてここでも、クラークとピゴットの『先史時代の社会』という本には、ヤギ・ヒツジの野生種は、オリエント周辺にしかいなかったかのような、不思議な分布地図がのせられている。

 こうして、彼らは、やはり牧畜の起源は、オリエントに求めるべきだと主張している。しかも、ヤギがいないと、農業そのもの、つまり農耕を含めた農業文化が成り立たない、とまで極言している。

 本当にそんなことがいえるのだろうか。果してアフリカ大陸には、ヤギ・ヒツジの野生種はいなかったのだろうか。

次回配信は、第3章-3「最初の家畜」です。

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『外交官惨殺事件の真相と背景』   2004年1月30日発行
http://www.jca.apc.org/~altmedka/shoten-diplom.html