週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.21 2004.02.05

[20040205]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.21
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

●叉∞叉∞叉∞叉∞叉●叉∞叉∞叉∞叉∞叉●叉∞叉∞叉∞叉∞叉●

┏┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┻┓

  第二章:ヤムのふるさと 

 ┣

┗┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┳┛

◆(第2章-11)掘り棒とオノ ◆

∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞

 ザイール(コンゴ)盆地に、バルバ民族がいる。彼らは、中世に、ルバ帝国の支配階級をなしていた。彼らも、ヤムなどを栽培する農耕民である。そして、つぎのような始祖伝説を語りつたえている。

 「彼は食物を栽培しはじめた。そのためには土地を耕さねばならない。しばらく彼は木製の掘棒を用いていたが、それでは仕事がとても苦しかった。その後、柄をつけた石の掘棒を用いてみたが、やはり仕事は楽にならなかった。そして遂に鉄の掘棒を用いるようになった。仕事は速く楽にできた」(『アフリカの創世神話』、p.189)

 この神話には、製鉄の起源と、アフリカにおける鉄鍛治師の社会的な地位の問題とがからんでいる。だが、製鉄の起源問題はのちの章でまとめてとりあげることにして、掘り棒に焦点をあててみよう。

 この掘り棒こそが、もっとも古くからの農「耕」具、つまり、土地を耕すための農具だった。一般には、オリエントで発掘された黒曜石の鎌が、最初の農具のように説明されている。しかし、鎌は、地面を耕す道具ではない。それは、採集用具または収穫用具にすぎない。

 木製の掘り棒は、採集民時代からひきつがれた道具である。ところが中米のマヤ文明などは、トウモロコシ栽培で成りたっていたのだが、相変らず木製の掘り棒をつかっていた。つまり、木製の掘り棒しかなくても、あれだけの古代文明をきずく生産力があった。掘り棒農耕は、軽視されてよいものではない。そして、採集民時代の道具だけでも、農耕はすでに可能だったのである。

 ところが、アフリカの熱帯隆雨林では、おそくとも紀元前7000年には、石製の刃をつけたクワが使われていた。これはどういうことであろうか。

 この石のクワについて、農学者の書いた文章は見当らなかった。発見されたところは、熱帯降雨林地帯の中心部、ザイール(コンゴ)盆地である。石のクワだけでなく、石のオノなどの伐採用具も発見された。そして、フランス人の地理・歴史学者、シュレ=カナールは、紀元前7000年のザイール盆地の住民が、「道具からして、森林の伐採や農耕に従事していたものと考えられる」、と書いている。

 しかし、シュレ=カナールは農学者ではないし、農業起源論にまでは立ちいっていない。その点は残念だが、ともかく重要な示唆である。石のクワは、すでに、掘り棒よりも進んだ農具である。わたしは、ザイール盆地周辺から、今後もぞくぞく同じような発見がつづくにちがいない、と考えている。そして、例の紀元前1000年頃のヤムベルト形成、そして南下という説は、この発見によって、すでに決定的に破綻していると考える。

 さて、掘り棒と、クワがでてきた。この農耕具の発達の歴史も面白い。

 まず、掘り棒の先が平べたくなった。そして、スコップ型のスキになり、家畜に引かせるスキ、ブラウになった。

 クワは、これとは別系統で、石のオノの刃が横向きになったものだ。つまり、森林の伐採用具から転用された。

 では、この2系統の農耕具の発明は、どういう地帯でなされた可能性が高いのであろうか。いうまでもなく、ヤムなどのような、根を掘り取る食用植物があった地帯であり、森林地帯に他ならない。つまり、農耕具の点でも、アフリカの熱帯降雨林地帯で最初の農耕がはじまったと考える方が、理屈にかなっている。

 一方、熱帯隆雨林地帯では、日本人にもヨーロッパ人にも、思いもつかないような道具が、主要な農耕具になっている。それは山刀、または伐採刀である。

 まず、農地を確保するために、樹木を切り払わなければならない。ところが、この作業は、休むことなしにつづけなくてはならないのである。その理由は、実際に熱帯降雨林地帯に住みこんでみないと、よく分らないであろう。

 文化人類学者の川田順造は、西アフリカのギニア海岸で長期間の研究生活を送ったのだが、百聞は一見にしかずというおどろきを感じたらしく、つぎのように書いている。

 「熱帯降雨林では、『栽培』というのは何よりもまず、植物の過剰な繁茂とのたたかいを意味する。……あぶら椰子やバナナなどの有用樹をまもるために、他の植物を、たえず『きりはらう』のである。……オアシスの椰子畑で、人が最もよく使う道具が、潅漑の水路を按配するための刃の幅の広い鍬であるのに対し、熱帯降雨林の大切な農具が、山刀であるというのも象徴性だ」(『マグレブ紀行』、p.22~23)

 新しい栽培植物の名前がでてきたが、この点はあとまわしにして、まず、山刀の問題を片づけよう。この川田順造の描写によると、山刀のようなものがなければ、熱帯降雨林で農業をやるのはむずかしそうである。

 では、山刀に類するものを、紀元前1万年頃のアフリカ人は持っていただろうか。

 もちろん、これもあった。しかも、大変古くからあった。ザイール(コンゴ)盆地を中心に、サンゴアン様式とよばれる面面加工石器(刃の部分を両面からけずったもの)が沢山発掘されている。その中には、木彫に用いられたらしいものとか、森林の伐採につかわれたらしいものとかがあり、なんと、この様式のはじまりは、約10万年前にもさかのぼることができる。おそらく最初は、住居をつくる材木を切りだしたり、槍や弓矢をつくったりしたのであろう。そして、すでに紹介したように、石のオノも出土している。異常乾燥期のアフリカ人は、充分に熱帯降雨林地帯にいどむことができた。たとえ中心部のジャングルに切りこむことはむずかしかったにしても、周辺部に農地を獲得する力量はもっていた。

 では、その最初の農地で、どんな農作物が、どういうやり方で裁培されはじめたのだろうか。ヤムだけだったのだろうか。それだけでは栄養が偏らなかっただろうか。

次回配信は、第2章-12「家庭菜園」です。

(^。^)y-.。o○
ウチの菜園でイノシシ飼ってるよぉ
・・・ウソだよぉ

Vol.22へ

『外交官惨殺事件の真相と背景』   2004年1月30日発行
http://www.jca.apc.org/~altmedka/shoten-diplom.html